友人が京都から「お茶呑み話」をしに来てくれた。「時間あるので、話でもしよう!」ではなく、文字通り「お茶呑み話」をするために、自分の茶器とお湯、茶葉を持ってやってきた。
せっかくなので、浜離宮に入ってお茶をいただき、閉館時間で追い出されるまで、「お茶呑み話」を楽しんだ。
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そうか。。。「お茶呑み話」は、昔当たり前にあったもので、失ったものの一つかもしれない。
「お茶呑み話」には、
・お茶を楽しみ、とりとめもなく話ができる時間の余裕
・相手を思ってお茶を淹れるという関係性
・テーマが決まっていないなかで、どんな話やどんな空気感がうまれていくのか未知数という偶発性
というコミュニケーションに必要な素養が詰まっている。
実家にいる頃は、近所のお客さんがやってきて「お茶呑み話」を延々やっているのが、日常だった。そういえば、お茶は一杯だけ呑んで出かけようとすると、そんなに急いていると、交通事故に遭うから最低でも二杯は呑むようにと言われた記憶もある。お茶呑みにとって、急いているは無粋なのだ。
「お茶を淹れる/淹れてもらう」という行為自体が、普段の忙しく時間を気にして、効率的なミーティングを心がけている自分から結界を張ってくれる。
ちょっとでも、「お茶呑み話をする」というシーンが象徴するような、心の余裕、自然と人と向き合う時間を、自分の生活に取り入れていかなくちゃね。
関連情報→京都からやってきた友人がやっているfacebookページ「緑茶男子(Green Tea Boys)」
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