同じ人達とだけ付き合っていたり、特定の母集団の中だけで過ごすようになると、異質なものに触れる機会がなくなり、自分たちが“普通”だと思い込んでしまう危険性がある。
下記は、そんなことを思い出させてくれる秀逸なtweet。
東京人が「寒い!」「雪が!」と騒いでいるのを東北・北海道人が笑うことを「北から目線」と呼ぶようになりましたが、同様に東京人が「古い!」「老舗!」と騒いでいるのを京都・奈良人が笑うことを「古都から目線」と呼びたい。
— 深海棲ゴンザレスなしれ (@NaShiRe) 2014, 2月 7
そうだよねぇ。東京に住んでいる人は特に気を付けないと、自分たちの当たり前が、日本の当たり前だと思っちゃうから。もっと俯瞰的に自分たちの状況を捉えないと。。。
そして、各エリアに「◯◯から目線」が存在するならば、旅に出て「◯◯から目線」を体験するのはすごく価値があること。
以前、「量が質に変わる」のは「ものさし」ができて「解像度」が高まるから。というエントリーで書いたように、自分の中に多くのものさしを持つことで、ものを見る・解釈できる解像度が高くなる。
もちろん、地域だけの話じゃない。日常の周りには多くの「◯◯から目線」が存在している。子育てしているママの目線、年金生活をしているお年寄りの目線、自営業経営者の目線、都市に引っ越しをしてきたばかりの人の目線、海外から旅行に来ている人の目線、消費者目線だけでなくサービスを提供する側の目線・・・。
多くの目線を想像・想定できることは、大きな武器になる。先進国では、いわゆる“ミドルクラス”のボリュームが減っていき、目線がますます多様化する社会になるのだから。
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