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2013/11/27

同じようなことをやっている人を競合と捉えるのか、同志と捉えるのか?


友人の所長サンのブログで、“ちきりんに「ついてゆけない」人たち”というエントリーがあった。あぁ、このような溝を感じることが多くなったなぁ。

同じように、「競合」と「同志」って同じ対象のことを、違う目線から捉えている溝の象徴じゃないか?ということを、ふと思った。


個人だったり、小さな単位で動いている人たちにとって、同じコトを思考している人や、同じ世界を目指している人はいわば「同志」だ。

一緒に情報や課題を共有し、どうやったら前に進めるのかを一緒に試行錯誤するのが当たり前。


一方、大きな企業やしっかりとした組織にとってみれば、同じコトをやっている対象を「競合」とみなす

やっていることがかぶらずに、協力出来る場合には「提携」という考えができるが、あくまでそれは「ここからここまではうちが、ここから先はそちらが・・・」という線引きをして、棲み分ける考え方だ。


なんで、同じ対象を見たときに、こんなに捉え方が違うんだろう?

一つには、個人や小さな組織で動いている人たちは、自分たちの市場が隙間だらけで、立ち上がってもいないと考えている。だから、守るものは少なく、むしろ一緒に市場自体をまだまだ育てていきたいと考えているからだろう。

それに対して、ゼロサム的な相手を競合とみなして戦う気持ちになる市場は、すでに成長が止まっていて、市場を拡げることよりも、競合を排除して自分たちの取り分を確保することにパワーを使うことが賢明なのだろう。

この立ち位置の違いが「競合」と「同志」という捉え方の違いを生んでいる。その企業の使っている言葉を聞いているとどちらの立ち位置にいるのかが、見えてしまう。


こういう捉え方の違いや、思考の癖の違いって、同じ文化にどっぷり浸かっていると見えなくなっていることが多い。特に、この「競合」と捉えるか?「同志」と捉えるのか?の立ち位置の違いは、これからの時代を生きるにあたって大きな選択を象徴しているように思える

つまり、自分で将来性のある市場を創りに行ったり、新しい選択肢にチャレンジする側を選ぶのか? それとも、旧来からの安定したなわばりを、敵を追い払いながら守り続ける側に回るのか?

この違いは今後、ますます大きな溝になっていくように感じる。。。

関連エントリー:「生き方のスタンス」が違うと友達になれない?自己責任派と他人依存派の埋められない溝


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2013/11/21

口を動かし不満を言っている人と、手を動かし身の周りを面白くする人



11月12月は仕事で、国内6地域を回る予定です。山形、三島、沼津、八戸、ときがわ、佐久。その後もまだ続くかも?

まだ山形出張が終わったばかりなのですが、いろいろと勉強になることばかりでした。共通するのは、自分たちの環境(自然の環境、持っている技能、周囲にいる人のネットワーク・・・)を受け入れ“工夫”して、楽しんでいるということです。

真下慶治記念美術館

例えば、上の写真の真下慶治記念美術館。最上川を描き続けた画家の記念館だけあって、曲がりながら山形県内を流れる最上川を借景として建てられた素晴らしい建物でした。安い資材なども使った木造の建物ですが、これこそ予算だけでは買えないものの典型かもしれません。

住んでいる人には、自分たちが住んでいる地域の素晴らしさを再認識させてくれる場所となり、外から来た人たちには、この地域の豊かさや根底に流れる文化を感じさせてくれる美術館です。

OUTDOOR SHOP DECEMBER




もう一つ特徴的だったのが、山形市内にあるアウトドアショップ。規模は小さくても、自分たちが川遊び、山遊びをする中で既製品では物足りないもの、あったらいいと思ったものを創って販売しているお店です。

小さなお店には、自分たちで建てた山小屋風の溜まり場も併設。きっとお客さんというよりも同じ仲間としていろいろと語り合ったり、次の遊びを企んでいるんでしょうね。道具からアパレルまで、お二人のセンスが好きでいろいろと買ってしまいました。

他にも素敵な場所はたくさんあったのですが、長くなるのでこの辺で。

口ではなく、手を動かして身の周りを変える

旅をすると本当に凄いなぁ、かっこいいなぁ、素敵だなぁ、と思える人と出会える確立が高くなる

僕が旅に出る目的が、世の中の基準とは関係なく、自分たちが面白いと思うもの、自分たちの環境だからこそ楽しめることをやっている人たちに会いにいくことだからかもしれない。

そしてもう一つ大きな共通点は、地方で自分たちの環境を楽しんでいる人たちは広義の「ものづくり」を行っているということ。何かを産み出している人は、自分の環境を自分たちでより面白くすることができる。

都会に住んでいる人は、口を動かして不満とか言っている暇に、地方にいる人は、手を動かして身の周りを面白くしている。

この対比を感じながら、都会にも「クラフトマンシップ」を持ち込むことで、まだ可能性はあるはずだと信じている。


関連エントリー:ネットも人生も、つまらなくさせるかは「自分次第」


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2013/11/13

“現在”のスティーブ・ジョブズにインタビューして書かれた本!!

今朝の会議で教えてもらったのですが、“現在”のスティーブ・ジョブズをインタビューして書いた本が発売されたとのこと。


え、“現在”?

なんと、大川隆法さんが霊界にいるスティーブ・ジョブズにインタビューしてつくった本とのこと。。。


いろいろとあるスティーブ・ジョブズ本は、すべて生前の話を「著者の視点」でそれぞれ切り取ったものです。普通の人の話は、編集されたもののほうがわかりやすく、編集に価値があるのですが、ビジョナリーな人の場合は例外です。

読み手が期待しているのはスティーブ・ジョブズ自身から発せられる言葉なんですよね。友人のブロガーである元アップルのカジケンも紹介しているように、誰かが編集したストーリーを読んだり見たりするよりも、本人の「生のインタビュー」が一番示唆に富むものだったりします。

そういう意味では、世にあまたあるジョブズ本の中で、一番"Think different"を体現している本なのかもしれない。人とは違うことを考えて、実行するってこういうことかも。

ある意味、コンセプトとして一番イノベーティブな本なのかも。。。いろいろと考えさせられるトピックスでした。(ちなみに、僕は現時点でまだこの本を読んでいませんので、レビューはできません。あしからず)


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2013/11/07

日常に、「お茶呑み話」を取り戻せ!

友人が京都から「お茶呑み話」をしに来てくれた。「時間あるので、話でもしよう!」ではなく、文字通り「お茶呑み話」をするために、自分の茶器とお湯、茶葉を持ってやってきた




せっかくなので、浜離宮に入ってお茶をいただき、閉館時間で追い出されるまで、「お茶呑み話」を楽しんだ。

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そうか。。。「お茶呑み話」は、昔当たり前にあったもので、失ったものの一つかもしれない。

「お茶呑み話」には、
・お茶を楽しみ、とりとめもなく話ができる時間の余裕
・相手を思ってお茶を淹れるという関係性
・テーマが決まっていないなかで、どんな話やどんな空気感がうまれていくのか未知数という偶発性
というコミュニケーションに必要な素養が詰まっている。

実家にいる頃は、近所のお客さんがやってきて「お茶呑み話」を延々やっているのが、日常だった。そういえば、お茶は一杯だけ呑んで出かけようとすると、そんなに急いていると、交通事故に遭うから最低でも二杯は呑むようにと言われた記憶もある。お茶呑みにとって、急いているは無粋なのだ。

「お茶を淹れる/淹れてもらう」という行為自体が、普段の忙しく時間を気にして、効率的なミーティングを心がけている自分から結界を張ってくれる。


ちょっとでも、「お茶呑み話をする」というシーンが象徴するような、心の余裕、自然と人と向き合う時間を、自分の生活に取り入れていかなくちゃね。



関連情報→京都からやってきた友人がやっているfacebookページ「緑茶男子(Green Tea Boys)


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