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2014/04/22

都市競争の時代に、東京は日本の首都であるべきなのか?


資本主義とテクノロジーの進化によって力を持ち始めたのは、国を凌駕する影響力を持ったグローバル企業と、国に頼る必要のなくなった個人。この2つの種族が有利な立場になり、一方で相対的に力を失ったのが国家でしょう。

そして、この2つの種族を引き寄せる力を持っているのが、魅力ある「都市」。シティセールス、有能な移民の獲得競争、企業誘致競争、都市間のアクセスを良くするインフラ投資、税金の優遇策…と、都市間競争は世界的に見るとホットな分野です。

もちろん東京は世界の都市競争で戦える土俵にいるわけですが、東京が日本の「首都」であることが、都市間競争で戦略的なポジションを取りづらくしているのではないでしょうか?


「都市の理論、国家の理論」 Follow the accident. Fear the set plan.には、こんな記述がありました。


ビジネスは規制の少ないところを求めて移動する。人はより大きな自由やチャンスがあるところに移り住む。とはいうものの、国境を超えて移動するのは今日でも簡単ではない。 
移民やビジネスの規制が撤廃された完全に統合した世界では、より良い場所を求めてビジネスも人も移動を続けるのだろう。そして都市間にはより激しい競争が生まれるはずだ。 
そうした環境下では、世界の都市はジップの法則に収斂するのかもしれない。私たちがよく口にする「グローバル化」は、ジップの法則に近づくことだとしたらどうだろう。 
都市は自律的に成長し、統計区分や州などの「小さな恣意性」をのみこんでいく。だが国家という「大きな恣意性」をのりこえることはできない。 
都市はみずからの論理を追求し、国家はそれを抑制しようとする。本来的に相反するこのふたつの力が背中合わせの「首都」ほど奇妙なものはない。


もちろん、シンガポールやモナコのような都市国家は、他のエリアが存在しないのだから矛盾を抱える必要はないでしょう。

国家としては、全体最適を考えなければならない。不採算部門だからといって切り捨てることはできない。そうすると成長部門に資源の配分を行う原資も、不採算部門を維持するために使わざるを得ない…。この力学は首都である東京が尖った戦略をとりづらくしている。

まるでかつての日本を代表する企業が成長戦略を取れずに、一方で世界マーケットに勝負しているベンチャーが資源は少なくとも尖った戦略を取りマーケットを奪われているのと同じ構造。。。

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じゃあ、どうすればいいのか?

小さい単位ごとに尖った戦略を取れるようにするしかない、と考えています。つまり日本→首都=東京という捉え方ではなく、東京=集合体(新宿、原宿、渋谷、品川、秋葉原…)として、小さい単位での都市競争を優先させる。その上で、それらの魅力あるエリアの集合体として、東京という競争力のある都市となる。実際、東京が世界の都市間ランキングで上位に入っているのは、この魅力あるエリアの集合体での東京都市圏の評価が大きのではないでしょうか。

さて、首都は東京という決まりは必要なのでしょうか?
「国の機関は東京に集中しているけれども、首都だからあるわけではなくて、都市として便利だからたまたま日本の中で東京にある」ということのほうが都市間競争の時代においてはメリットがあるでしょう。機関ごとにより便利な都市があれば移転を選択すればいいでしょう。

首都機能の移転とかそういう議論ではなく、首都という概念を辞めるほうがスマートに感じます。

もはや首都という冠が邪魔になる時代なのであれば、それを返上するという選択があっても、面白いと思うのですが。国家の時代から都市の時代を経て、個人にパワーがシフトしていく流れの中での、エポックメイキングな出来事になると思うのですが。

極論でしょうか?

追記:いろいろ調べていると、東京が首都だという明確な法律はないとのこと。(wikipediaからですが)


2014年現在、日本の「首都」は、一般的に東京都ないし東京と解されている。これは、日本の法令で初めて「首都」の語を用いた「首都建設法」(昭和25年法律第219号)が、東京都を首都と解していることによるところが大きい。ただし、同法は1956年に廃止されており[1]、現行の法令で「首都」について直接的な表現を用いて定めるものはない[2]
日本では歴史上天皇による朝廷の下に、国際的には時に「日本国王」「日本国大君」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京京都両京制(東西両都)などの面から首都の議論があり、現在も法律上では「どの都市が首都であるか」という明確な定義がなされていないため、「首都は現在の首都圏にある東京である」という意見の他、「現在も京都と東京という2つの首都が並存している」「京都が正式な首都である」等、様々な首都論・首都認識がある。 
ますます「首都」である必要性がわからなくなってきます。。。

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2014/04/18

大きなシステムに文句を言う暇があったら、小さな範囲でも課題解決に取り組む。



前回のエントリー「40代以下の世代は、自分たちは「マイノリティだ」と早く認識したほうがいい理由。」には、いろいろな意見が集まって、書いた自分が一番勉強になりました。

・一番、損するのは30代以下では?
・もらえるうちに上の世代からもらうべきでは?
・高齢者と若者世代で対立を煽るよりも、40代50代が社会システムを変えていくべきでは?

同意コメント以外では、上のような意見が多かったように思います。

まあ、そうなんですけどねー。上のような意見をいただいた上でも自分の意見は「現状維持を望む人がマジョリティの議会制民主主義の国に住み、危機感を感じるマイノリティは、システムの変化を望むよりも自分たちがサバイブできる準備を(マジョリティの後ろ指をさされようが)しておくほうがいい」というもので変わりありません。


この背景にあるものを、もうちょっと伝えておきたいと思います。

世代間闘争(逃走?)のつもりは一切なく、むしろ若い世代が高齢層と戦うことは無駄なことにパワーを使うだけです。なぜなら敵は高齢者ではなく、あくまでこの国のシステム(とくに社会保障)だから。

高齢者世代の人たちは、自分たちがマジョリティとして主権を行使しながら、自分たちが生きるのに最適化した社会システムを作ってきました。そして、自分たちが今後、収入の不安が年代になってから(そのために作ってきたのが今の社会保障システム)、自分たちを犠牲にした改革に賛成できるはずがありません。

そして、彼らが選挙というシステムではマジョリティなのです。もちろん消費者としても。

だとしたら、主役が交代になる時期が来ない限り…大きな危機が来ない限り…。別の力学がはたらいて現システムを変えるようなことはまずないでしょう。

ちなみにドイツでは、年金の支給年齢を引き下げるという驚きの動きがあるようです。。。


ドイツと日本は両国とも、現在、出生率がほぼ1.4。平均寿命は日本の方が少し長いが、これも似たようなものだ。つまり、どちらもまさに同じ"少子高齢化"問題を抱えているわけだが、現在ドイツでは、こともあろうにそれを無視して、国を滅ぼすような改革が行われようとしている。年金支給開始年齢を63歳に引き下げるのだ。

だからこそ、マイノリティであり、現社会保障システムに反対の個々人が未来に備えることしか現実的な選択肢がないのです。

個々人も、自分の持っているリソースや資質によって、選択肢は異なるでしょう。

海外に移住して別マーケットでチャレンジする、日本で着々と将来のために備蓄していく、自分の世代はすっとばして子供の世代に教育としてサバイバル力をつける動きをする…それぞれが自分の判断で動けばいいでしょう。

変えられる範囲を小さく設定しての取り組みが多くなっているのも必然です。国という大きな単位ではなく、あくまで地域としての街の課題に取り組むことに、引かれているのもこの世代です。また、特定の社会課題に取り組むプロボノ的な活動を加速させているのもこの世代です。

あえて繰り返します。国という大きなシステムを変えることで消耗しているよりも、小さな範囲でも課題を解決する活動を行いながら、経験を積むほうがずっと前向きです

そう。大きなシステムを変える前に、“小さな範囲でボトムアップでの改善経験を積み重ねる。”これが30代・40代が取り組むべきことなのです。自分の力も時間も無駄にしないように、少しでも改善できることに力を使いましょう。


まるでゲリラ戦のように、同時多発的に未来に向けた改善を行うしかないですよ。ね。

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2014/04/14

40代以下の世代は、自分たちは「マイノリティだ」と早く認識したほうがいい理由。



ここ数日考えていたのは、自分たちはもはやターゲットではないということ。日本の人口動態的にも、現在の日本のマスターゲットは、高齢者です。

メディア事業を考えるときに、縦軸を単価(LTV)。横軸をターゲット人数とおいて、長方形の面積が大きさを頭に入れて考えますが、高齢者はまさしくこの面積の最大化で正しいのです。(将来価値を考えた投資ではなく、現在最適化の短期戦略としてw

ニュースキャスターの「パワポ知らない」発言

ターゲットが高齢者であれば、この発言は正しい側にいると言えます。僕は見てないのですが視聴者がネットで話題にしたということは、やはりマスメディアはターゲット以外の人にも伝わる力を持っているという証明になっているのかもしれません。



もし私が日本の若者なら、他の国への移民を考える。日本に明るい未来は見えないからだ。 by リー・クアン・ユー(中山道子さん)

このエントリーから引用すると。
"私が子供だったころは、日本でテレビを見れば、私が、どの年齢であったときであっても、また、どの時間帯にテレビを見ようとしても、地上波では、必ず、「私の世代をターゲットにした番組がメイン」だったのに(皆さん、今でもそうではありませんか?)、それに対して、我が子にテレビを見させようとなると、まあ、そもそも、あまりたくさんは見させないほうがいいのでしょうが、それにしても、細かく番組表を確認して、録画しないとだめなのです。
その理由は、もう皆さん、実感済みの、これですね、、、すでに、2010年の段階で、0歳から14歳までの人口が、総人口に占める比率は、13%台に過ぎず、この層(のその親)は、購買力も、たいしたことがない。もはや、地上波にとって、メインターゲットとはなりえないのですね。。。"
ここからがもっと大事。

"「過去の親子関係」を思い出してみると、今の50歳くらいの世代までは、親(敗戦から立ち上がった世代)の背中を見て育ち、日本国内で、大企業などに職を求めることができれば、確かに、それが上策だったと思うのです。しかし、今の時代、日本では、若い世代は、親世代が経験したことのない環境(多くの産業において、経済規模が拡大するのではなく、縮小していく)の中、日本の立ち行く道、自分の生きる道を、手探りで、一から、切り開いていかなければいけません。これが厳しく聞こえるとしたら、それは、今の世代の日本人の認識が、甘いからで、ぶっちゃけ、戦後直後の日本を始め、現代日本以外の国や状況では、これは、常識だとは思いますが、ただ、政治の場において、このような戦略的な動きを若年層が主導できるくらいなら、地上波テレビは、そもそも、「年寄り向け」になっていないでしょう。"

そう、大事なのはこれで、もはや上の世代のルールは諦める必要があるし、本来なら未来を考えて30代40代は主導権を取っていかなければならないが、高齢者という既得権側に対抗できていないまま。。。

でも、現実的で実践的に一つできることがあるとすれば、(自分のためにも社会のためにも)「上の世代のルールに従わずに、生きていく」ことでしょう。上の世代の敷いたレールはJR北海道だと思うぐらいのシニカルな目線で。(維持コストが半端なく、もはや迷惑



「トイレ共同。風呂共同。」は夢か現実か(シロクマの屑籠)

"90年代以来の、スタンドアロンなライフスタイルのほうが夢だったのかもしれない。親の代までに集積した経済力によって支えられてきたライフスタイルは、その経済的基盤が失われれば成立しなくなる。高度成長期~バブルの徒花のようなものだ。にも関わらず、そのような暮らしをスタンダードとみなし続けるのは、白昼夢に近い。"


"1980~90年代にかけてつくられた諸々のスタンダードのなかには、経済的/人口動態的な存立条件が失われてきているものが少なくない。そういった、存立条件が崩れてきているスタンダードは、しばらくは惰性で持続するにせよ、やがて消えていくと考えられる。"

上の世代どころか、自分たちが若い頃・もしくは今も享受しているものも、今後どうなるのかわからない。

高齢者世代もしくは50代ぐらいまでまでは、現在のルール上でも生き残っていけるし、時間的な危機感はここまで必要ないかもしれない。

しかし40代以下は社会的にマイノリティだ。既存のルールに合わせるための努力をいくらしてもマイノリティとレッテルを貼られるだけ。だとしたら、日本社会のマジョリティに後ろ指をさされても、サバイブする方法をトライ&エラーして学習していくほうが、ずっと現実的なんじゃないかなぁ。

なんとなく、他の人の記事をカットアップしながら、DJスタイルでお送りしました。


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2014/04/08

「移動は投資」



いつも僕の心を揺さぶってくれるブログに「お互い強く生き抜きましょう」というエントリーがありました。本人を知っていることもあり、なおさら心に響きました。

“移動はコストでもリスクでもない。移動は投資です。移動が投資とすれば、なんのリターンがあるのか。リセットできること、です。”


“ぼくはこれからの時代、強い主観が大切とかんがえてます。移動によってこの主観が磨かれる。客観的にみようとすればするほど主観が磨かれます。

個人で生き抜くことが求められる時代に、
自己完結の力は必須でして、そこに強い主観がないと生き抜けないとおもうからです。”

実際本人はここ数年で、浜松→中国のハルビン→中国の西安→フィリピンのフォート・ボニファシオと移住しながら、事業を起こしてきています。(不動産事業だったり、就職斡旋事業だったり、飲食事業だったり…)。

新しいマーケットを知るためにその国に移住し、そこで何が事業としてできるのかを考える。外部からの目線を持っているから、他のマーケットとの差異が見える。だからこそ、新しい事業チャンスを見出すことができる。

さらにすごいのは、数年でその都市での事業オペレーションを作って(つまりある程度手離れできるようにして)、次の都市へとまた移動する。

===

こういったケースだけ見るとすごく特別なことのように感じてしまうかもしれませんが、普遍的なものが「移動は投資」という思想にはあります。

“移動によって、客観的に見ようとすればするほど主観が磨かれる”がまさにそうです。客観的に異なるものを見ていくと、自然に自分の中に「ものさし」ができていきます。これがものすごい武器になります。

複数の視点という「ものさし」を持っているからこそ、見えてくる「発見」「抜け道」「切り口」があるのです。この複数の視点は、都市の違いということだけではありません。複数の業界、複数の仕事、複数のコミュニティ、複数のプロジェクト、複数の趣味…なんでもあてはまります。


客観的に複数のモノを経験するためには、取捨選択が伴います。一定の自分のリソースの中で、新しい経験をするためには、何かを捨てて新しいことに挑戦しなければ視点は磨かれません。移動するために、時間を確保して身軽にして、新しいところに飛び込むのとまったく同じです。

旅をしょっちゅうしている人は、取捨選択することや、新しいものに乗る決断をすることに慣れています。

「移動は投資」という思想をもって実践している人は、「ものさし」という視点と、取捨選択して動けるという2つの大きな武器のトレーニングをしているとも言えるかもしれないですね。





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2014/04/03

「何事も全力で」から「楽することをサボらない」へ




新人社員に送る、社畜にならないための4つの習慣。(デマこいてんじゃねぇ!)というエントリーがいかしている。

いろいろと書いてあるが、このエントリーは以下の一言に尽きる。

“アウトプットが同じなら、ラクしている人のほうがすごいのだ。”



自分が新入社員の時に言われたのが、「早く、力の入れどころ、抜きどころを覚えろ」というアドバイスだった。

見極める力がないころは、すべての仕事・タスク・作業が等価に見えてしまい、すべてのものに全力でぶつかっていってしまう。

仕事への相場観ができ、凹凸が見えている先輩の目からは、新人の仕事への態度は、仕事の重要性を無視し、リソース配分を考えない、無計画性ばかりが目についたのかもしれない。

全力でやり続けていたら、長くは続かない。どこかで重要な仕事で大きなミスをしてしまうかもしれない。。。

−−−

「何事にも全力で」ということを、美徳としている人もまだまだ多い。日本社会全体でいえば、まだまだこっちが主流だろう。

勤勉さを否定はしないが、それが報われるという前提で“勤勉さ”の押し売りをされると、すごく気持ち悪い。


個人的に大好きな商品やブランドのいくつかは、職人の丁寧な仕事によって生み出されるものだ。でも、それは生み出される商品が素晴らしいからであって、苦労が好きなわけではない。手間をかけるだけの意味のある作業を見極め、ちゃんとそこを大事にしているから好きなのだ。


−−−

マーケットが成長しているときには「何事も全力でやる」ことが、“結果的に”多くの人におすすめできるアドバイスだった時代があった。その時の教訓を、時代が変わっても引きずってしまっている。

今は、“どこがポイントなのか?”や“何に力を入れるべきなのか?”を見極めることが非常に重要だ。本気で全速力でアクセル踏みまくる前に、軽くテストして見極めることもずいぶんと市民権を得てきた。

でも、それは、“いかに手を抜くのか?”“やらなくてもいいことはなにか?”を見つけられることの重要性も指している


「楽をしよう!手を抜こう!」という言うと社会的な抵抗感がまだあるならば、「楽をすることをサボらない」ぐらいの楽することの勤勉性を、ヤレヤレ感を出して訴求するぐらいで、ちょうどいいのかもしれない。

蛇足:だとするならば、“手抜き修行”とか“適当な人になる講座”とかのマーケットが立ち上がってきてはじめて、社会的に「手抜き」や「楽する」ことの価値が認められるようにようになるのかもしれない。それはそれで息苦しいけど。


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