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2014/07/30

クリエイティブとは、答えを出す力よりも設問設定能力のほう。


「何が問題なのかが問題」

IDEE創業者であり国連大学前青山ファーマーズマーケットや246common、自由大学ファウンダーの黒崎輝男さんに、とある講演で話をしていただいたときの言葉です。

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僕らが日々仕事で直面しているのは、課題を解決するための方法を考えて、実行に移し、うまくいくように運営することです。

しかし、最初の「課題設定」で間違ってしまったら・・・。間違った課題設定を唸りながら解き、総出で苦労しながら実行に移すものの…「あれ? 当初の課題は解決できたけど、それで何がしたかったのだろう?」という悲しい結末になりがちです。

そして、苦労して実現したことは組織として正当化する力が働いてしまいます。
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クリエイティブさとは、この何が課題かを見極める力です。多くの組織が間違った課題を設定する間違い、苦労する方法を選び頑張ったと賞賛する文化を壊すことです。

良いデザイン=問題解決ができること、と言われてきましたが、今はさらに良いデザインを引き出すための課題設定能力が必要とされているのだと思います。

課題設定が得意な職業としてのコンセプターや、編集者あたりが活躍できる範囲はまだまだあると思うんだけどなぁ。


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2014/07/24

「ヒップな生活革命」を読んで。音楽が担っていたスターの位置づけは食に移った



ヒップな生活革命』佐久間裕美子著を読んで、故川勝正幸さんが90年代に「世界同時渋谷化」と名づけた現象を思い出していた。

90年代に「世界同時渋谷化」が、2010年代は「世界同時ポートランド化もしくは世界同時ブルックリン化」が起きているのかもしれない。


この新しい文化の潮流は、自分たちが消費するものの本質を強く意識することから始まっています。口に入れたり、身に着けたりするものがどこで作られ、どこからやってきたのかを考えよう、社会的責任に重きを置く企業を支持しよう、「より大きい物をよりたくさん」という消費活動と決別しよう、お金さえ払えば誰でも手に入れることのできる高級ブランドのバッグよりも、自分がより強いつながりを感じるものを、たとえば同じコミュニティの一員がデザインし、地元の工場で、自分たちと同じ電車に乗って仕事に通う人が作る商品を使おう、という新しい価値基準の提案です。via.「ヒップな生活革命」まえがきより

以前は音楽とミュージシャンが担っていたスターの位置づけが、現代では食とシェフ/コーヒーとバリスタが担っている。そんな現象と地元でのものづくりのトレンドや、地に足の着いた生活革命、日常を愉しむ生活が書かれている。


人間は環境に適応する生き物だ。生態系の一部だ。時代によって、大きく振り子が振れたのを戻すために、ヒップなものの定義は時代で変わる。新資本主義が行き過ぎたアメリカで、都市型の働き方が行き過ぎた日本で、昔ながらの食や健康に良いもの・コトがヒップに感じるのは、必然なのだと思う。

関連エントリー:人間が生存していくために「イケてる・イケてない」の感覚が存在する



ヒップな生活革命
佐久間裕美子

はじめに
第1章 アメリカに新しい変化の波が現れた
「新しいアメリカ」のスペック
時代を変革するヒップスターたち
おいしいコーヒーが代表する文化の「サード・ウェーブ」
ポートランドに芽生えた独立の精神
文化のケミストリーが起こる場所としてのホテル
ひとつの文化圏となったブルックリン
バブリーな世界観と対立する無骨で温かいスタイル
「責任ある食べ方」がニューヨークの食を変えた
消費動向の変化が社会に変革を求める

第2章 食を通して生き方を変える
グルメになったアメリカ人
ブルックリンに花開いた食のアルティザン文化
自分が自分のボスになって生活をコントロールする
地産地消の思想と結びついて生まれた屋上農園
生産者と消費者を直接つなぐ地域支援型流通システム
アリス・ウォータースが広める「食べられる校庭」

第3章 足元を見つめ直してモノと付き合う
「ブラック・フライデー」で過熱する極端な消費主義
売りながら「買うな」とうたった異例のキャンペーン
「ギビング・チューズデー」が大量消費に投げかけた疑問
公益に企業の価格を見出す新しい企業の形
贅沢から実質へのシフトが起こっている
「メイド・イン・USA」の復興
日本人デザイナーが貫いた「メイド・イン・ニューヨーク」
老舗に命を吹き込んだヘリテージ・ブーム
全米一治安の悪い街・デトロイト復興の物語
自分の生き方を表現するブランド
サイクリストと直接つながる自転車専用パンツのブランド
斧からスタートしたブランドが商品に込める物語
違うコミュニティを掛け合わせて成長する帽子ブランド
製造業を底上げする作り手と工場とのお見合いサービス
顔の見える作り手から買える新しいオンラインストア

第4章 自分の場所を作る文化発信のチャンネル
レコードの流行に見る音楽文化の再生の兆し
若い作家がデジタルで直接映像を届ける配信革命
小さなコミュニティを作って復活する雑誌
世の中の動きとは独立して自分たちの場所を作る
政治に参加するチャンネルはひとつではない
日本の伝統的な文化がアメリカに与えた影響
 


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2014/07/16

“当事者”という美味しいポジション


人生のほとんどは、何かの“当事者”になっている期間だ。他人の映画や小説を愉しむよりも、まず自分の物語を味わおう。

サービスを作るときにも、マーケティングの仕掛けを考えるときにも、企画書を作るときにも・・・必ずターゲットユーザー像を設定して、その人達の気持ちになって「刺さる」ものを考えるのが当たり前。多くの仕事で、“ユーザーの気持ちを想像する力”が前提になっている。

だとしたら、自分自身がユーザーであるタイミングである“当事者”期間の経験をフル活用しないわけにはいかない。

今の自分であれば、双子の子育て修行はまさしくこの当事者の酸いも甘いも研究し尽くすタイミング。仕事も子育てもいろいろごちゃごちゃにしながら、どういう暮らし方をしたらいいのかを探求できるタイミング。

もちろん、仕事で“当事者として”取り組んでいるプロジェクトからは、お金をもらいながらいろいろな経験や知識を貯められる。

人生に無駄な経験はない(はず)。せっかくの当事者になれるタイミング。その経験を売り物にできるように、後に問題解決ができるように、深く深く掘っていくことでディープインタビューよりも強いインサイトを拾い集めて戻ってこよう。

関連エントリー:「失敗談ほど美味しい経験はない。


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2014/07/10

自己責任派と、自由と責任を放棄しておきながら文句だけ言っている人達。


台風が来るたびに、自分のスケジュールを自分でコントロールする「自由と責任」について考えてしまいます。

以前、台風が来ることが確実にわかっているのに出社して帰宅困難に陥る不思議さについてエントリーを書いたことがありました。昨夜の台風で再び認識させられた「リスクを取ったジャッジができない」日本の空気

起こってしまったことを全力で以前の形に戻すことは迅速に機能するし、素晴らしい復旧作業が行われます。 昨夜も倒れた木を撤収して、道路を通れるようにしたり、線路を元通りにして早く復旧できるために多くの人が各持ち場で素晴らしい仕事をしていたと思います。本当に頭が下がります。 

しかし、なぜか、未然に防いだりするための判断を行うことは苦手なようです。台風が直撃する日に、自宅待機という判断もあり得たと思いますし、逆に出勤したからには中途半端な時間ではなく台風が行き過ぎてから帰宅するような指示を出すという判断もあると思います。もしくは、そんなことは会社に頼らずに、自分個人の判断として、情報を集めて自己責任でジャッジすべきですよね。 

さて、本題です。 前者と後者の大きな違いは、「起こってしまったことを全力で以前の形に戻すこと」が、「元通りにすばやく戻す」ということのために、合意形成がしやすいのに対して、「未然に防ぐための判断」は「もしも起きなかったら?」などとケチが付き、合意形成が行われづらいことです。 

正直、日本のこの倦怠感というか気持ち悪さは、この「もしも?」という不確実性が高いことについて、合意形成ができない空気が蔓延していることのように思います。 

そして、合意形成ができないことを「自分の責任で」とリスクをとって判断する人が少ないことからきています。 リスクとって決めて実践するってことは、この「未然に防ぐための判断」を行うときと同じ行動です。情報を集めようと思えばいくらでも集められます。でも、最後は「えいや!」で人がジャッジを下すしかないんですよね。
自分で未来のことに関して、予防策を取ることも無視することも、自分で100%責任を負うからこそできることです。この「自由と責任」を放棄してしまっている人が多いように思います。

会社や組織に「帰宅するかどうか」の判断を委ねていながら、その判断のせいで混乱に巻き込まれると文句を言う人達。消費者意識が変に高く、自分の判断で購入したものなのに、過剰なサービスを求めクレームをつけまくっているモンスター消費者。行政にも教育にも、自分たちがなんら参加していないのに、完璧さばかりを求める人達…。すべて同じ所でつながっています。

「自由と責任」を放棄しておきながら、文句だけ言う人達を「カッコ悪い」と大声で言える社会に僕は住んでいたい。文句言っている暇があったら、自分たちで未然に防ぐ努力や改善策を出して動ける大人たち側にいたい。

関連エントリー:「生き方のスタンス」が違うと友達になれない? 自己責任派と他人依存派の埋められない溝


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2014/07/04

移動は投資。仕事は研究。


以前、「移動は投資」というエントリーを書きました。
“移動によって、客観的に見ようとすればするほど主観が磨かれる”がまさにそうです。客観的に異なるものを見ていくと、自然に自分の中に「ものさし」ができていきます。これがものすごい武器になります。

複数の視点という「ものさし」を持っているからこそ、見えてくる「発見」「抜け道」「切り口」があるのです。
今の時代を生きている我々にとって、この「移動は投資」をもって手に入れられる視点は大きな武器となります。


そしてもう一つ大事なことは、「仕事を研究」と思えるかどうか。自分のやっている仕事は、自分が研究してノウハウを蓄積したり、成果を出していくものだと捉えられるかでしょう。研究開発費として、自分が時間や労力やお金というコストを払うのを、喜べるかどうかです。

会社員であろうと、フリーランスや経営者であっても、これは同じです。自分が仕事でやって積み重ねていっているものが、自分の研究成果としてプロフィールになっていきます。

よく言われることですが、以前は企業名や肩書など所属している“企業格と階級”で判断される時代でした。

しかし、今では過去やってきたことが調べればすぐにわかる時代です。

自分は何を成し遂げてきたのか? 何の専門分野で、どんな経験を積んできているのか? どんなテーマをもって取り組んできているのか?どんな転機や人との出会いが今につながっているのか?ということが価値を持ちます。

Narrative(ナラティブ)という言葉が、急上昇してきている背景には、大学教授や研究者でなくても、個々人が「仕事を研究」にすることが求められるということがあるのでしょう。

さらに、もう一つ背景にあると思っています。これは「NarrativeとStoryの違い」を説明したほうがわかりやすいでしょう。
「NARRATIVE」という単語を辞書で調べると、「物語」という意味が出てきます。「物語」という言葉から連想されるのは「STORY」であり、「NARRATIVE」ではありません。
「NARRATIVE」と「STORY」は少し意味が違います。「STORY」は始点と終点が決まっていて、話の向かう方向性も決まっています。それに対して「NARRATIVE」は始点と終点がなく、方向性もないまま「語っていく」、そのような状況です。「NARRATIVE」な語らいが良いのは、そこにある偶然性・意外性です。
その語りの中には、今まで気がつかなかったことが多く含まれています。その糸口から「なぜ?」を繰り返し、その思考や行動の背景を探っていく。普段は意識していない、自分の中で物語として成立していないものが、語らいの中で結びついていく。相手が大事にしていることやその意味、理由が見えてくる。via:http://www.nakedclue.jp/当社を支える考え方/narrative/

計画的にプロフィールを見せたり、一直線に積み上がってきたものよりも、自分のテーマを追求しているなかで、偶発性や意外性のある出来事があり、振り返ってみると、今の自分の場所ができているという話にこそ重要な部分があるのです。

多くの研究者が失敗やミスによって、偶然大きな発見と出会えるように、我々のプロフィールもNarrative性によって紆余曲折あって積み上がってきたもののほうがセクシーで人を惹きつけます

自分を研究者と定義したら、仕事を積み重ねる中で起きてしまう失敗やミスもチャンスと思えるようになるし、ちょっと違った分野でも探求してみたいと思えるコトや人と出会うのは自然なこと。

振り返ってみると、想像していたいよりも遠くに、自分を連れて行ってくれるかもしれませんよ。


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