世の中で当たり前だと思われていることを、疑うところから「革命」は起こるのかもしれません。
平成19年民間給与実態統計調査より(国税庁)。やはり年収は国税庁が調査w
たとえば、仕事を比較したり、人を比較するときにも「年収ヒエラルキー」を信じ込まされていないでしょうか? 年収を基準にすることが当たり前になっていないでしょうか?
同年代の人と比べて、自分の年収が高いのか低いのか? 自分よりも良い物を持っていたり、良い家に住んでいると年収が高いんじゃないか?と考えてみたり。最近では、公務員などに向ける怒りも「いい年収もらいやがって」となっていたり。。。
でも、よくよく考えてみると年収という基準だけで比較するのっておかしいですよね。企業に置き換えれば、株を購入するときに売上だけで比較しているようなものです。特に個人ということを考えると、むしろ利益絶対額のほうが何倍も重要な基準になると思うのに。。。
手元にどのぐらいのお金が残って、再投資にどのぐらいの金額を回せていて、そこからどのぐらいのリターンが得られているのか?
もしくは、お金の使い方がどのくらいその人の「人生満足度」を高めているのか?
仕事の充実度、自分の能力が社会に役立っているという喜び、ライフスタイルの満足度、暮らしやすさ、などいろいろな要素があるはずです。人によって重要と感じる価値が異なるのも自然なことです。お金を使わないことが、喜びの人だっているわけですし。
そもそも、満足の基準は他人との比較じゃなくて、自分の中にあるはずです。他人が決めた物差しを盲目に信じちゃいけません。
さて、なぜ「年収」を基準としてソートをかけることを是とするように、我々は教育されてきているのでしょう?
国の税収を考えた場合、年収が高い人からは多くの税金が取れるからだと思っています。
同じように、「就職率」が問題だと信じ込まされているのも、国としてはサラリーマンになってくれたほうが、税金がとり易く、年収が上がってくれないと税収が増えないからかもしれません。
「就職しなきゃ」「年収上がるように転職しなきゃ」・・・結果、喜ぶのは?
世の中で当たり前だと思われていることほど、立ち止まって考えてみたほうがいい。
誰かにとって都合のいいための基準なのか? 本当に自分にとって良い基準なのか?を。
1/31の「創職系」新年会で、常見陽平くん、宮嶋みぎわさん、玉置沙由里さんともこんな話をしていました。
あと、以前「従業員という生き方」から離れている人たちの5つの秘訣」のエントリーで書いたインディペンデントな生き方をしている人が、活き活きと輝いているのも、こういった当たり前だと思われている基準から目を覚ましているからだと考えています。
こんな時代だからこそ、自分の人生を取り戻すいい機会ですよ。
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