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■自分の評価・影響力のお裾分けで、貢献できる喜び
先日、Techwaveコミュニティのカジケンがblogを開設し、1記事目を投稿したところ、同日中に1万PVを軽く超えてしまいました。
内容が「今日本で起きていることの傾向と対策。」という多くの人が危機感を抱いていることを俯瞰的に整理して、自分のポジションがどこなのか理解できるという優れた記事であるという要因が大きいのですが、いかんせんBlog開設して一番最初の記事ですからコンテンツ力だけでは、すぐに注目を浴びることは難しいはずです。
数人で分析したところ、やはり最初はFacebookの知人経由で広まっていき、ここの時点で影響力のある個人が多かったため、そのフォロワーに響き、はてブがどんどんついて、いろいろなところで露出されるようになったようです。
この詳細を書きたかったわけではなく、友人がBlogを開設し、そのことを祝ってみんなで記事をオススメしあったときの感覚に何かすごく大きなヒントがある気がして、ずっと自分の中で引っかかっていました。
自分たちの影響力や評価を使って、友人が書いた素晴らしい記事を、自分のフォロワーに対してオススメすることで、評価のお裾分けをする感覚です。
そして、いろいろな人に取り上げられ、紹介されていき、記事が波紋のように広がっていくのを見ていて、自分のことのように嬉しく感じました。
■ポジションが有限で他人を引き上げたがらない、会社組織との違い
では、なぜ会社などの組織では、評価のお裾分けがはたらかないのでしょうか?
それはポジションが有限だからでしょう。
成長している会社・伸長している業界であれば、ポジションが有限だとは感じません。日本の多くの産業のように既存の基盤を守ることに注力している組織では、中にいる人は、どうしてもポジションは有限だと危機感を募らせてしまいます。
頑張っている誰かを応援して押し上げると、自分の敵になってしまう。そういうルールがはたらいてしまいます。
会社に所属する一人一人の個人は良い人なんだけど、会社という器自体がゼロサムゲームになっているため、素晴らしい取り組みをしている個人の足を引っ張り合うような雰囲気が醸成されてしまうのです。
■自分だけ得するルールから、与えることで自分も得するルールへ
資本主義経済から評価経済社会への変化で一番大きな感覚の違いは、ゼロ・サムゲームから、ポジティブ・サムゲームへのルールチェンジなのかもしれません。
そもそも資本主義経済は、有限の物を奪い合うゲームです。アメリカ$は基軸通貨なので紙幣をいくらでも刷れるという話もありますが、通貨価値は相対的に弱くなります。食料も資源もすべては限られているので、このような富を蓄積した人がゲームの勝者でした。
限られた物をめぐって争っているので、戦いに勝って手に入れた物を蓄積しているのが勝ち組で、多くのものを持っていない人が負け組という定義が生まれてしまいました。
一方で、「評価」は相対的にたくさん持っている人と少ない人の違いはありますが、有限ではありません。誰かに評価を与えたから、自分の評価が減るものではありません。
その分、内容が良くないものをオススメすることで、自分の持っている評価を落とすことになったり、素晴らしい物をオススメすることで感謝され、自分の評価を上げることができます。
その分、内容が良くないものをオススメすることで、自分の持っている評価を落とすことになったり、素晴らしい物をオススメすることで感謝され、自分の評価を上げることができます。
私は、このポジティブ・サムゲームに未来をすごく感じます。
昨年311の東日本大震災後に、みんなが「自分ができることは?」と行動を起こしていたときの感覚って、このポジティブ・サムゲームでした。奪い合うのではなく、自分ができることを助けあうという気持ちです。
あの時期、間違いなく次の時代の社会ルールが体験できる不思議な期間だったのではないでしょうか?
みなさんも、ポジティブ・サムゲームによって、嬉しかった経験ありませんか?
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