今朝配信されたダイヤモンドオンラインの記事に、「村上春樹作品の“離脱する主人公”に見る時代遅れ感 新しい共同体のヒントは『ONE PIECE』にあり?」というものがありました。
正直、タイトルに詰め込み過ぎだろう・・・とか、村上春樹を叩いてONE PIECEに結論を持って行かなくてもいいだろう・・・という気もするのですが、読んでみるとすごく面白い考察が出てきます。
しがらみを気にする時代からいつでも「離脱」可能な時代に
バブル崩壊以前(正確には崩壊後数年まで)の日本社会では、人間関係は「黙っていても巻き込まれるもの」だった。
生まれたときから、様々な人間関係がすでに用意されていて、その関係の中でうまくやっていかなくてはならないプレッシャーに晒される。親戚関係で、学校の友人関係で、就職後の会社組織で、人間関係のしがらみを気にしながら生きていかなくてはならない人生を送る人が多かった。
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むしろ、今日本人が求めているのは、どのようにコミットメントするか――つまり、どのように自ら望んで関係を構築するか――であるはずだ。
しかし、その答えが見つからず、皆四苦八苦しているのが現状だ。「コミュ障」なる言葉がメジャーになったのは、コミュニケーションの苦手な人が増えたのではなく、関係を自分をつくらなくてならない、という新たなハードルが出てきたためなのだ。
自分探し、生き方・働き方を模索し、悩む人が増えている背景をすごく的確に捉えています。
もはや悩みは「しがらみの中で、どうやって生きるのか?」ではなく、しがらみから逃れることを選択することも可能となった今、「何をやるのか?」に移行してきているのです。
「何にコミットメントするのか」を誰しもが問われる時代。どんな人と繋がって、時間を使うのかを自分で選択しなくてはならない。
与えられたものでなんとかやっていく時代と比べて自由度が増したために、自分で決断し、行動しなければならなくなったのです。
いかに我慢して馴染むかよりも、いかに我慢せずとも馴染むか
村上氏は、最新作を「リアリズムへの回帰」と述べたが、本当にリアリズムに回帰するならば、この時代に、いかにして自ら能動的にコミットメントを形成するか、その行動を描くべきであると私は思う。
そして、この問題はそのまま日本の会社組織の問題となる。終身雇用制と年功序列制に守られて、共同体としての会社組織に「いかに我慢して馴染むか」が重要だった時代は終わり、嫌になったら辞める、逃げる社会になっている。
そこでは、「いかに我慢して馴染むか」という悩みはない。その代わり、「いかに我慢せずとも馴染むか」を求めるようになる。
「いかに我慢せずとも馴染むか」を考えるためには、自分が求めているものは何なのか? 優先順位が高いものと、低いものを見極めなければなりません。
自分がどうでもいいと思うことは我慢せずに従えるが、自分が大切にしていることは譲れない。すべてをわがままに生きることはできないからこそ、自分の中のトレードオフと合致する環境を選び取らなくてはならないのです。
その場合、世間的に優先順位が高いか低いかは関係ありません。“自分にとって”が大事になるのです。だからこそ、自分のものさしを持っていない人は、情報に振り回されたり、恐怖感を煽られて不安にさせられます。
この状況で必要とされるコンテンツは、「自分のものさし」に気がつくための物語です。それは小説というフォーマットよりも、現実の生々しい実話なのかもしれません。良い面だけをクローズアップするのではなく、「捨てていること」「諦めていること」というトレードオフの面も見せるドキュメンタリーが必要とされているのでしょう。
他人の葛藤して選択してきたストーリーを知ることで、逆に自分自身が見えてくることに繋がるから。
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