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2012/02/27

ノマド論に対して、会社員とフリーが対立することの不毛さ。




ここのところ、ネット上で「ノマド」を巡っていろいろと対立が繰り返されています。ノマド=フリーで事務所を持たずに仕事をする人という、間違った認知が広がってしまっていることが原因だと個人的には思っています。


だいたい以下のような論点です。
・結局うまくやっているのは、高学歴で会社でもうまくやれたヤツじゃないか?
・ノマドになってみたけど、食っていくのは大変じゃないか!
・コミュニケーションが高くないとやっていけない
・若い世代を、ノマドに憬れさせても、勘違いしてやっていけない人を作るだけ


自分自身が、企業とプロジェクト契約を結んで仕事をしているノマドの一人として、上の議論はまったくその通りだと思っています。ノマドを批判する人たちが言っていることは、その通りです。


会社員でもフリーでも、現代の日本で働く人にとって、共通の不安があるからこそ、「ノマド」議論がより攻撃的なやりとりになってしまっています。ノマドが議論の焦点になるべきではないのです。共通の不安への対応策が議論の焦点になるべきです。


その共通の不安とは何か?
新興国から押し寄せるコモディティ化した仕事を低単価で担う労働力です。
会社員であっても、フリーであっても自分がやっている仕事が、定型化できるものであればあるほど、安く請け負ってくれる(新興国の人たちにとっては満足な単価で)人たちが後ろに控えているのです。


そこに対して、今の生活レベルを維持したいのであればやるべきことは、以下の二つです。
1:経済成長する新興国をターゲットにしたビジネスで起業する
2:新興国の人たちでは代替できない仕事ができるプロフェッショナル・クリエイティブ人材になる


今の「ノマド」に胸騒ぎを覚えている人たちでいえば、「2」の部分について、本気で考えなくちゃいけないのです。
・会社員であれば、代替化されない特技の掛け合わせとして「市場価値の高い」人材になるために経験を積む
・フリーであれば、代替化されるような単純なアウトソーシングプレーヤーになるのではなく、付加価値の高い「時間単価の高い」人材になるために努力をする


上のノマド批判で出ていた「高学歴で会社でもうまくやれたヤツじゃないか?」ですが、この人たちは、自分の価値を高めることを考えると、会社で得られる機会よりも、フリーになって「場数」や「経験」を積むことを選択した人たちだからだと思います。


会社員でも、付加価値の高い仕事や、経験を積んでいる人たちは、このような不安を感じずに自分の市場価値を高めていけます。(もちろん、高める方向が、今の社会に最適化されていて、近未来において価値がなくなるものであれば危機感を高めないとマズイです)


もちろん、現在の給与水準や生活レベルが恵まれていただけと割り切って
3:恵まれた日本の給与レベルを捨てて、より低コストな自由な暮らしを選ぶ
という選択肢も大ありです! しかし、このノマド批判は時折、この3番目である給与水準を下げて、自由を選んだ人にも矛先が向いています。




くしくも、ジャック・アタリが著書「21世紀の歴史」の中で、超ノマド(ハイパーノマド)とバーチャルノマド、下層ノマドという分類をしていました。


超ノマド:世界で通用するエリートビジネスマン、学者、クリエイティブクラス(芸術家、アーティスト、スポーツマン)
バーチャルノマド:インターネットや携帯電話などで交信するバーチャルな人たち
下層ノマド:生きるために移動を強いられる人たち




超ノマドを目指している人たちは、常に自分がコモディティ化しないように努力を続けています。タフな世界です。


ノマド批判に時間を使う前に、この1〜3の選択について、自分がどれを選択していくのかを考えましょう。やみくもにスタイルだけマネしても、壁にぶつかってしまいます。


スタイルに憧れるのであれば、本気で自分を鍛えるための分野を決めて、機会を得るための行動を取ったほうがいいと思います。機会を得るためには、会社に属して修行することも、丁稚奉公するでも、ボランティアで経験を積むでもいいでしょう。


繰り返しますが、今までの生活水準が恵まれていただけと割り切って、今後どうしたいか考えて、それぞれ行動しましょう!これは悲観的なことではなく、新しいライフスタイルについて考えるチャンスなんだと思いますよ。





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2012/02/20

西安で考えた「この時代の日本だからこそ得られるハイブリッドな生き方の恩恵」


先週、中国の西安に出張してきました。いろいろ方にお会いし、現地の物価やショッピングモールや百貨店から、一般庶民が愛用するお店まで視察してきました。


マクロ的な数字や、統計データをいくら集めても、現地での実感値がないと読み取れないからです。何より重要な現地の人の行動原理や、今の気分がずいぶんとインプットできました。おかげで、僕自身もかなりのエネルギーをもらえたようです。


■なぜ西安だったのか?


検索したらちょうどよく、こんな記事が出てきました。説明代わりに紹介します。


  習近平時代への期待 後ろ盾で「西安」へ巨大投資



たしかに西安への投資はすでに巨大なスケールになっている。空の玄関である西安咸陽国際空港は年間の利用旅客数が1500万人、貨物取扱量が16万トン、飛行機の離着陸回数は16万回で、これらの年間増加率はすべて2桁増を誇る。
現在は100億元(約1200億円)を超える予算の下、第3ターミナルが建設中で既存のターミナルの4倍規模。完成すれば中国の三大空港の一つとなろう。
鉄道関連では現在改修工事中の西安北駅も西安駅の3倍以上の規模で東洋全体でも有数の広さだ。地下鉄の建設も急ピッチに進められている。実は私も西安にある西北工業大学での集中講義のため今月に2週間、西安を訪問する。C自慢の西安の大発展の様子を直接見ることを今から楽しみにしている。



写真がその新幹線の駅です。しかし、写真中央に見える薄緑の部分は壁ではなく、ただの間仕切りです。つまりあと半分同じスペースがあるのですがまだ使われていませんw


まさしく西安は急ピッチで成長中でした。新幹線の駅に行ってみたら、国際空港並の巨大さ。それでも、まだ動いている路線は少なく駅の半分しか使っていません。市庁舎も北側に移転し、領事館街が新しく建設中で、いままでの中心街から離れた場所でも、都市計画ががんがん進んでいました。






上の写真は西安の中心部ですが、城壁の中は歴史的な建造物や街並みを重視した観光都市・古都長安として計画的にデザインされています。夜になると古い建造物はライトアップまでされます。(明の時代に復元された物らしいですが、十分古い!)


もちろん物価も高くなってきていますが、それにもまして都市が発展し、住んでいる人たちが経済発展の恩恵を受けているタイミングです。多くの人が自分で、チャンスを掴もうと躍起になっている時期です。


日本にいると中国の経済成長は踊り場というトーンのネガティブなニュースを目にしますが、あんなに広くて内陸と沿岸部の格差がまだまだある中国を一つでくくれるわけがありません。そのため、内陸都市で今から成長していく西安を実際に見ておきたかったのです。

■あの時代の落ちこぼれが活き活き活躍できる社会


現地の方のお宅で、西安家庭料理をいただきました。とはいっても、束縛されずに自由に動きたいからと、家事も育児もいとこにアウトソーシングしていました


お世話になった現地の方が、言っていたことですごく印象的だったことがあります。


「このタイミングの中国に生まれて、良かったねぇ」と。
てっきり経済発展のことを言っているのかと最初は思ったのですが、もっと深い意味がありました。


小さい頃は、中国が世界で一番良い場所と信じさせられていたそうです。しかし観光都市である西安には海外からも外国人がやってきて、彼らの持っている物やプレゼントしてくれる物を見て、もっと世界を知りたいと思ったそうです。


そういう考えを持っていたので、小学校では落ちこぼれで、お前の思想はおかしいと指摘されていたそうです。しかし、小さい頃落ちこぼれだった人物が、外国語を学び、海外に留学し、今では西安に戻って、チャンスを見つけて活き活きとビジネスを楽しんでやっています。


一つの主義に染まらなくても、チャンスを得られる社会になったから、「このタイミングで良かった」と考えていたのです。さらには「何かに所属するのではなく、こうやって自由に仕事できているのはいいね!」と。なにより束縛が嫌いと言い切ってました。


もちろん、先進的な考え方をしている一個人の例かもしれませんが、僕と価値観が近しいので、話も盛り上がるし、心の距離がすごく近くなります。最近は、国ではなく、価値観の違いのほうが大きな隔たりに感じてきます。


■「ハイブリッド」に生きられる喜び

今回の西安出張でも再認識したのですが、僕らは「ハイブリッド」に生きられる恵まれた環境にあります。


一つは先進国の中で、少子高齢化・長引くゼロ成長という国で変わっていく価値観を目の当たりにしながら、新しい「生き方」を生み出す環境に自分を置けるのです。僕自身、個人が主役となる時代の生き方のロールモデルを生み出すために、日々楽しく格闘中です。


もう一つは、自分たちが属するアジア圏がこれからまだまだ成長していく中で、自分たちの持っている知見や技術・センスを活かしてビジネスができる。今からチャンスのある新興国に行くと、ビジネスチャンスは本当にたくさんあります。ただし、決まっていないことやどうなるかわからないことが多いので、日本的な合議スタイルではなく、意志決定権を自分が持って柔軟に動ける環境であれば、多くのメリットが得られるでしょう。


この二つの環境を両方楽しめるのが、ハイブリッドに生きられる僕らの特権だと思っています。


こうやって他国の個人とも価値観で繋がって、個人同士がチームを組んで機会をものにしていける素晴らしい環境を手に入れられます。


僕も「このタイミングの日本に生まれて、良かったねぇ」と思っています。


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2012/02/13

人間が生存していくために「イケてる・イケてない」の感覚が存在する

写真は梅棹忠夫展で撮影したメッセージ「未来のことをかんがえる場合、いわゆる初期微動に敏感でなければいけません。」

時代によって、「カッコいい」という感覚、「ダサい」と感じるものは移り変わっていきます。環境に適応する種が生き残るといわれているように、この「イケてる」「イケてない」の感覚は、生存するために社会を調整していくための機能なのかもしれません。


今「イケてる」もの
・持たない生活/身軽な生活
・家族や親戚など仕事以外にも貢献する生活
・多様な価値観を理解しながらも、自分の軸を主張できる人
・一つの組織に依存しない自由を持っている人


今「イケてない」もの
・成金もしくは、燃費の悪い金銭感覚で成り立つ生活
・仕事ばかりで、家族や地域をないがしろにする生活
自分の生きてきたルールのヒエラルキーを他人に押しつける人
・給与をもらっている組織に縛られて、自分の気持ちに嘘をつき続けなければならない人


と、書いてみると今「イケてない」ものは、一昔前に「イケてる」とみんなが憬れたものです。そして、今アジアの新興国に行くと、日本で「イケてない」と感じていたものが「イケてる」ものになります。


あくまで上記の分類は、僕の感覚ですが、やはり自分が置かれている環境でこの「イケてる」「イケてない」の感覚は作られてくると思います。


経済成長が続く環境に置かれれば、その中で最適化するように自分の感覚がスイッチします。そして、今のように先行きが不透明なままだと思えば、生き残るために、節制することが「イケてる」というふうにして適応していきます。


上で書いた分類は、ロスジェネ世代の僕の感覚ですが、下の世代も同じような感覚を持つでしょうし、上の世代になればなるほど異なってくると思います。それと、環境には個人差もありますから、世代論だけでは語れない部分が出てきます。


この美的感覚が、社会を変えていく原動力になっているように思えてなりません。そういう意味では、ファッションやデザインなどの「イケてる」という方向性が未来を示唆してくれています。


パタゴニアがブラックフライデーにやった「Don't buy this jacket」キャンペーンもイケてる感覚の支持者だし、地元を盛り上げるためにデザイナーやアーティストが仕掛け(大学時代からの友人で、一緒によくチーム組んでいるデザイン事務所)ているのもイケてる感覚の実践者だと思っています。


これで、やっと上の写真の梅棹先生の言葉「未来のことをかんがえる場合、いわゆる初期微動に敏感でなければいけません。」に繋がりました。


みなさん、いかがでしょう?



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2012/02/06

「自分だけ得するから、与えることで自分も得する」。ゼロ・サムからポジティブ・サムゲームへのルールチェンジ

via  http://www.flickr.com/photos/wendycopley/2450509351/





■自分の評価・影響力のお裾分けで、貢献できる喜び


先日、Techwaveコミュニティのカジケンがblogを開設し、1記事目を投稿したところ、同日中に1万PVを軽く超えてしまいました。


内容が「今日本で起きていることの傾向と対策。」という多くの人が危機感を抱いていることを俯瞰的に整理して、自分のポジションがどこなのか理解できるという優れた記事であるという要因が大きいのですが、いかんせんBlog開設して一番最初の記事ですからコンテンツ力だけでは、すぐに注目を浴びることは難しいはずです。


数人で分析したところ、やはり最初はFacebookの知人経由で広まっていき、ここの時点で影響力のある個人が多かったため、そのフォロワーに響き、はてブがどんどんついて、いろいろなところで露出されるようになったようです。


この詳細を書きたかったわけではなく、友人がBlogを開設し、そのことを祝ってみんなで記事をオススメしあったときの感覚に何かすごく大きなヒントがある気がして、ずっと自分の中で引っかかっていました。


自分たちの影響力や評価を使って、友人が書いた素晴らしい記事を、自分のフォロワーに対してオススメすることで、評価のお裾分けをする感覚です。


そして、いろいろな人に取り上げられ、紹介されていき、記事が波紋のように広がっていくのを見ていて、自分のことのように嬉しく感じました。


■ポジションが有限で他人を引き上げたがらない、会社組織との違い


では、なぜ会社などの組織では、評価のお裾分けがはたらかないのでしょうか?


それはポジションが有限だからでしょう。


成長している会社・伸長している業界であれば、ポジションが有限だとは感じません。日本の多くの産業のように既存の基盤を守ることに注力している組織では、中にいる人は、どうしてもポジションは有限だと危機感を募らせてしまいます。


頑張っている誰かを応援して押し上げると、自分の敵になってしまう。そういうルールがはたらいてしまいます。


会社に所属する一人一人の個人は良い人なんだけど、会社という器自体がゼロサムゲームになっているため、素晴らしい取り組みをしている個人の足を引っ張り合うような雰囲気が醸成されてしまうのです。




■自分だけ得するルールから、与えることで自分も得するルールへ

資本主義経済から評価経済社会への変化で一番大きな感覚の違いは、ゼロ・サムゲームから、ポジティブ・サムゲームへのルールチェンジなのかもしれません。

そもそも資本主義経済は、有限の物を奪い合うゲームです。アメリカ$は基軸通貨なので紙幣をいくらでも刷れるという話もありますが、通貨価値は相対的に弱くなります。食料も資源もすべては限られているので、このような富を蓄積した人がゲームの勝者でした。

限られた物をめぐって争っているので、戦いに勝って手に入れた物を蓄積しているのが勝ち組で、多くのものを持っていない人が負け組という定義が生まれてしまいました。

一方で、「評価」は相対的にたくさん持っている人と少ない人の違いはありますが、有限ではありません。誰かに評価を与えたから、自分の評価が減るものではありません。


その分、内容が良くないものをオススメすることで、自分の持っている評価を落とすことになったり、素晴らしい物をオススメすることで感謝され、自分の評価を上げることができます。




私は、このポジティブ・サムゲームに未来をすごく感じます。


昨年311の東日本大震災後に、みんなが「自分ができることは?」と行動を起こしていたときの感覚って、このポジティブ・サムゲームでした。奪い合うのではなく、自分ができることを助けあうという気持ちです。


あの時期、間違いなく次の時代の社会ルールが体験できる不思議な期間だったのではないでしょうか?


みなさんも、ポジティブ・サムゲームによって、嬉しかった経験ありませんか?


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