仕事が忙しくて、生活が荒れぎみのときほど、「丁寧に暮らしたい」という気持ちがわきあがってきてくる。ホッコリしたいんだけど、だらしないのは嫌なんだよね。
別に派手な生活をしたいわけではなく、ラクして暮らしたいわけでもなく、ちゃんと「丁寧に暮らしたい」。僕らの生活が、便利になんでも手に入るようになり、どんどん効率的になんでもできるようになってきた揺り戻しとして「丁寧に」「手間をかけて」暮らすことへの憧れが生まれてくる。
不思議なものです。
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大阪でWSWS(wisdom sharing work shop)という会で講演するために大阪に行き、翌朝京都にいる同期と2時間強おしゃべりして帰ってきた。
お茶一つとっても、観光客向けの顔と、日常生活に溶け込んでいる生活としての顔がある。僕個人は後者の顔を見たり、体験することに興味がある。住んでいる人にとっては「必要とされる・必要だと思われている」のは前者である観光客向けの顔。
観光客のほうもハレの姿をいくらみても日常生活が“ハレ”化しているから、希少価値を感じなくなっている。むしろ、ラクでも・派手でも・わかりやすいものでもない、「丁寧に暮らしている」“ケ”の姿のほうが興味深く感じると思う。
例えば、「丁寧に暮らす」ということを体験するために京都に旅に行って1日だけでも、その生活に浸ってみる。水をくんできて、植物に水を与えて、その後丁寧に朝食を作って食べる。そんなプログラム体験したい人は多いだろう。
丁寧に暮らしている人は、便利に暮らしている人を羨み。便利に暮らしている人は、丁寧に暮らしている人に憧れる。人間は、ないものねだりなんだから。
観光で本当に提供して欲しいのは、「普段ないもの」のほうなんだよね。そして「普段ないもの」が時代の移り変わりによって、「いつもあるもの」になってしまう。
そういうことに気がつけるように、常に第三者の眼を忘れずにもっていたいですね。