一度自分の気持ちにひっかかった表現があると、打ち合わせ中でも会話中でも、「また、それか!」と気になって話に集中できなくなる。
最近のマイブームは「多様化」だ。会話の中でも、「多様化してますからね〜。」とか、ニュースなどでも「ライフスタイルの多様化によって…」と聞くたびに、本当かなぁ?とつい考えてしまう。
今、“手垢のついた表現”として、乱用されている表現の最右翼が“○○の多様化”かもしれない。
この「多様化」が使われるのは多くが、要望に答えられない理由や、迅速に対応できない言い訳として「多様化」が使われている。
でも、本当に要望に答えられないほどに、要望が多様化しているのだろうか? 政治や行政が対応できないほど、社会の望む方向性が見えないのだろうか?
−− 冷静に考えてみると、ベクトルは一つじゃないだろうか?
従来型の富国強兵型の経済成長のために、いろいろなことを犠牲にしてもらガリガリやるのだということをなんとなく共有していた世界(この時代にも多くの疑問を感じていた人がいた)から、もうちょっとバランス良く人間的な生活を送りながら経済的に安定できる方法はないの?という層のボリュームが大きくなっただけだろう。
つまり生活者の要望は明確で、「みなさんが望んでいることの方向性はこっちですよね」と提示できるはずです。
しかしながら、それをやらないのは、今の日本の置かれた社会環境で、誰にでも楽してその要望を手に入れられるほど、甘くない、からなのでしょう。要望や課題を特定してしまえば、それを解決しないのは政治家や行政が責められることになってしまうから。
もはや、これは社会課題ではなく、各個人の課題だと認識すべき時なのかもしれません。
多様化しているのはニーズではなくて、要望を手に入れるための個人の実現方法のほう。個々人の持っているものを社会に提供しながらバランスの良い人間的な生活を手に入れる。それぞれの立場で、機会を活かしてバランスの良い人間的な生活を手に入れる…etc。個人が考え、動いて手に入れるものなのです。
言うなれば、行政や政治が(国家がと言ってもいいかもしれないが)一律に対応できる手法ではないということです。(税収が今後も伸び続け、人口も増加していく環境であれば別ですが)
まとめると、「○○の多様化によって、あり方を検討中」ということは、「政治が対応しかねることなので個々人で頑張ってね」というふうに読み替えるとすっきりする、ということです。
何かが欲しければ、誰かのせいにせず、自分で工夫して手に入れる時代。文句を言っているぐらいなら、自分でHackする。そしてそれが思っている以上にできる時代です。
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