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2015/01/30

気づくと、モノの分野でもプロシューマー(生産的消費者)化しやすい環境が整ってきた

ここ数年、自分が欲しいなぁと思うしっくりくるものを市場で探すのが面倒かつ見つからないので、自分でお願いして作ってもらうことが増えてきた。

写真のフツーに見える帽子も細かくオーダーして作ってもらったもの。ベースとなる形やらサイズ・生地・色、ワッペンのフォントや色・サイズ、ステッチの色、アイレット・アジャスターetc.

そもそも注文することが愉しい時間だったりする。他の人にとっては帽子一つに対して面倒なことかもしれないw


“成熟化(大人になった?)”から

個人的な体験を分析すると、自分のファッションテイストもトーンもすでに固まってしまっている。若い時のように新しいものを試して失敗しながら、自分を理解していくというステージがとっくに過ぎてしまった。

アイテムに関しての経験値がすでに高くなっている。自分の中に、このアイテムにこんなことを求めるという要件や、軸がすでに存在している。目が肥えた消費者になっている

自分が満足できるものしか欲しくないのに、市場にあるのは顔の見えないみんな向けの商品であふれている。場合によっては、大手メーカーなどの作り手・企画者よりも自分のほうが経験値が高いことも出てくる。

こうなってくると、世の中にたくさんある商品から選ぶ(ECなどが実現している世界)よりも、自分が欲しいものを自分でオーダーしてつくるほうが労力もかからず、満足度も高い。


モノ分野でもプロシューマー化しやすい環境が整ってきた

アルビン・トフラーが『富の未来』の中で提唱した「生産的消費者(プロシューマー)」になりやすい環境が一層整ってきたという背景も見過ごせない。

プロシューマーが語られだしたころは、あくまでソフト産業だったり、DIY分野についての兆しだった。それが今では工場で作っていたような物の分野にも当てはまるようになってきた。

以前ならそれなりの量をつくる人でないと、製造してもらえないものが多かった。相手が工場などであればなおさら効率化を求められから、経済的メリットが少ない小ロットでなおかつこだわりが強い個人ユーザーなんて相手にしてもらえない。

しかしながら、今ではこだわりが強い個人ユーザーを相手に、要望を聞いて作ってくれる個人商店が増えてきている。小商いをやっているほとんどが個人の商店は、ネットで注文を請け、ヤマト運輸のような個人の荷物を簡単に送ってくれる物流のおかげで商品を届けることができる。

得てして、この個人商店を起こす人は、その分野でプロシューマーとなる注文主と同じトライブに属する人であることが多い。注文主と話が合うし、細かすぎるこだわりの意図も理解してもらいやすい。


とはいえ“誰でも”プロシューマーにはならない

自分で欲しい要件を言語化して仕様に落とすのはパワーがかかる。それだけの情熱も伝える術もまだまだ必要になる。ある意味仕事で要件定義して、エンジニアに伝えるのと同じだけのことを、趣味でやる…。

人は考えることを避ける・判断するのを先延ばしする。多くの人は受動的で頭を使わないことが好きで、流されることが楽なのだ。世の中の大半の人は、こっちの吊るしの世界のほうが幸せに感じる。

一方で残りの人達は、自分の頭で考えて比較検討して、納得行くものを欲しがる人達だ。もしくは、ある特定の分野に関してはプロシューマー化するけれども、どうでもいい分野では吊るしで不満はない人達もいる。

欲しいものを明確であれば、見つからなくても作り出せるし、そうではない人は流されていることで満足できるという構造があるように思える。暮らし方にしても、仕事にしても、モノであっても…。そんなことを個人的な消費行動を通して俯瞰してみた。




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2015/01/23

モノを買わなくなっても、時間は消費させられている。


2015年になってから、子供の病気、嫁の肺炎、子供のインフル…と、次から次と襲ってきたお陰で、ネットやマスメディアなどのあらゆる情報洪水から離れる生活を送っていました。(正確に言うと、今なお継続中…)

時間的な問題や自由になれないもどかしさはたくさんありましたが、情報が取りづらくなったことに関しては、正直、まったく困りませんでした。もちろんメールのレスが遅くなったりなどでご迷惑をお掛けした方もいるとは思いますが。

気をつけていても、知らず知らずのうちにたくさんの情報を消費する習慣がついてしまっているのかを思い知りました。いわば、移動中の空き時間に…ソファに座りながら…という後継姿勢的な情報インプットは、まさに消費ですね。


時間がなくなることでインプットすること=自ら必要と思って前傾姿勢になって探すことに限定されました。こちらは、仕事上の必要に迫られて、手が家事などで動いていても頭の中で考えていたり、組み立てていたりするので、その上で必要な情報を探しに動いた結果の情報収集です。

家庭的な状況で、時間に制約が生まれることで、情報との距離感の見直すきっかけになりました。

−−−
受動的に出会う情報のほとんどはノイズ。

テレビから流れてくるニュースのうち本当に必要な情報ってなんでしょうか? 情報番組といわれるもののうち本当に必要な情報ってなんでしょうか? タイムラインを眺めている中で得られる有用な情報ってなんでしょうか?

すでにメディアの作り手が平均的な読者を想定できない今、受動的に得られる“みんな向け”の情報は「知らないよりは、知っていたほうがいい」というレベルのものかもしれません。

「知らないより知っていたほうがいい」ものに時間を奪われているぐらいなら、「自分が知りたいこと」や「自分が実践できる、自分に関係する情報」と出会うのに時間を使いたいと気がつくはずです。

ノイズ情報をたくさん入れていないと不安になるのは、モノを買うことをさせづらくなった現代でもいまだに有効な消費のさせ方なんだなぁ、と。お金を払わなくても、時間を消費させるというのがすごく機能している社会だよなぁ、と。

無料の情報って、無料なのではなくその分時間を売り渡し、下手すると自分の将来の選択も売り渡している(住宅・保険とか多くのマーケティングはここですよね)ことがあるので注意が必要です。

自分が何をやりたいかわからないとか、やりたいことがないって言う人の多くはこの情報を受動的に消費するのに毒されているから起こっていることとも言えます。自分の頭で考えるのってパワーがかかるから、つい楽なほうに流れちゃうものです。


上記はすごく当たり前の社会の仕組みですが、今回のように情報収集に宛てられる時間が極端に減った環境に追いやられることで、また見直すことになりました。自分の頭で考えるめんどくささから逃れちゃいけません。

というか、今年はこんなことにならないように家族健康で暮らしたいなぁ。今年本厄の筆者よりw



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