自分の「視点」を鍛える、コミュニケーション能力を高めることは、実用的な自己投資だ。
同じ対象物を見ても、文脈の情報を持っている人と持っていない人では見えてくるものが違ってくる。それによって、戦いに勝つ者が現れたり、新しい商売を始める人がいた。話がうまい人が周囲を巻き込み多くの仲間を作ることができた。
だから、昔から人間は自分に投資するときに「教養」、リベラル・アーツを学んだ。「教養」は視点を鍛える・コミュニケーション能力を高めるための実用的な学問だったからではないだろうか。
同じ絵を鑑賞しても、見えてくる情報量が変わってくる。同じ音楽を聴いても、得られる情報量が変わってくる。同じ文学作品を読んでも、違う意味が読み取れる。「教養」によって得られる視点が「文脈」で、文脈を読み取れる能力がある人が、素晴らしい人格者と尊敬されてきた。
文脈を理解することで、自分の置かれている環境を正しく把握できる。全体の流れの中で自分がやること・やりたいことをどう訴求していけばいいのか、どう協力者を得ていけばいいかを掴むことができる。今で言えば、コミュニケーション能力と定義されるものが、「教養」を学ぶことで手に入れられる。
”今”必要とされているものを身につけたいのであれば、“今”稼げる技術や“今”重宝される技能を学ぶほうが手っ取り早い。しかし、昔から「教養」が尊重されてきたのは、時代が変わっても、流行が変わっても必要とされる普遍的な自己投資が必要だと考えていたからだろう。
だったら、特定の技能を鍛えたい明確な欲求を持っていない人で、未来に不安を感じている人こそつぶしのきく「教養」を学んだほうがいい。
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ちなみに、僕の場合は「天の邪鬼」であることを信条としているので、もしも「教養」が流行してきたら、みんなが見向きもしないものに鞍替えするだろうw
そのタイミングで「価値>注目度」となっているもったいないものを見つけて、「価値<注目度」となる前に身につけておきたいし・・・。
そうか!この「価値>注目度」を見つける視点を手に入れるために、結局相場観を得るために「教養」を身につけなくちゃいけないのかもなぁ。。。やっぱり「教養」は普遍的に必要かも。
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