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2014/05/28

"仕事のために"とか言い訳してでも、愉しんだり遊んだりしたほうがいい理由。


日本社会でイノベーションが起きづらいことの一番の課題は、「楽しむことに罪悪感を感じる社会」をどうやって払拭するか?でしょう。

みんなで同じ苦痛を味わうことが一体感を得るために尊重されたり、“自分が楽するため”という理由で工夫することが是とはしてもらえない雰囲気は、生産を上げたり新しいことを行う大きな壁になっている。

楽すること、遊ぶことへの罪悪感を取り払わない限り、いつまでたっても物事を前に進めようとする人たちが潰され、楽しみ方を開発する人たちが、後ろ指さされてしまう。。。

いっそ「仕事のために楽する、遊ぶ」という言い訳を準備してあげる方法がないかなぁと考えていました。

遊ぶことに罪悪感があったり、ストレス解消するためにモノを買ったり浪費しているぐらいだったら、投資として体験を買ったり先行投資として遊ぶことを“仕事のため”と“眉間にシワを寄せて”やればいい。この説得方法があるかも、と思ったのが以下の文章です。
経験的にモノにお金を払うかたはお金が増えない。体験にお金を払うかたは投資家という「生き方」をしているなあとおもう。 
なぜ体験という投資に惜しみなく金をかけられるかというと、答えは簡単。体験は流用できる。アイディアだけでお金はあとでいくらでも取り返せる。
投資的生き方においては、体験は客観的でないほうが尚いいとおもう。主観で問題の設定をしていく。
みんなが肯定しないものが投資。とおもうようにする。逆にみんなが愉しむものに参加することを消費するといいます。via:投資は生き方と思います。−所長サンの哲学的投資生活 

結局、新しいものを産み出すためには、人とは違った目を持つことが求められます。遊びがうまい人は、世の中にある“面白い”要素を発見して、活用できる人です。(その力を養うために、大人は遊ぶのですw)

みんながすでに面白いと思っているものは、市場に認知されているのでうまみはありません。みんなが見向きもしないもの、なんだかわからないものを掘り起こす・サービス化するから儲けにつながるのです。

大人こそ、“仕事のために”もっと愉しみ、遊びましょう!



関連記事:
僕が、わざわざ現地視察することで得られる3つのメリット。
「移動は投資」

追記:自分自身が遊ぶことからはじめたものに「手書き地図推進委員会」があることを思い出しました。現地の人の濃い目線で、その土地を楽しみたいという気持ちから始まった活動ですが、だんだんビジネスとしても育ってきています。こういうのが大人の遊び方だと思うんですよねぇ。


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2014/05/23

何の変哲もない「紙袋」が、かっこ良く思えるようになった背景。


文脈が変わったため、今まで見向きもされないものが、急にかっこよく感じられることがある

ふと、感じたのが、上の写真のような「紙袋」。ビニール袋ではなく、ブラウンのお金のかかっていなさそうな紙袋。もしかして一番オシャレなバックなのかも。

ちょっと調べてみたら、やはりこの何の変哲もない紙袋風のバックがすでに商品化されています。

問題は、なぜこの何の変哲もない「紙袋」が急にかっこよく見えるようになったのか?

この「紙袋」の背景にあるのは…

・チェーン店ではない地元のお店で買物をしているということの意味性が変わった

ノームコアというワードが登場したように「外見を着飾ることで差別化するよりも、自分の思想や行動のほうが重要」と変化した

この話を「ファッションの話ね」と思っている人も多いかもしれないが、人の気分の変化はもっと広範囲に影響します。

先日書いたエントリー「協業するときも、広告するときも、企業は“できること”よりも“哲学・思想“が問われている。」とも背景はつながっている。そう企業のコミュニケーションの仕方も変わるのです。

また、地元のお店で買い物する、歩いていける自転車で行ける範囲で買い物をするという行動の変化は、都市設計にも影響します。

中身が問われる時に、外見は普通で力が入っていないなものであるほうが、逆に本物感が強くなる。菅付さんの「中身化する社会」にあるようなトレンドを無視できなくなります。

かっこよく感じるものが変化するときには、大きなトレンドの変化や未来へのヒントが隠されています。




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2014/05/21

協業するときも、広告するときも、企業は“できること”よりも“哲学・思想“が問われている。


企業でも個人でも、一緒に何かに取り組むときに、思想や価値観がマッチすることが、ますます重要になっています。

例えば、
・労働人口が減少するから→生産性を上げなくちゃ・より人生を楽しむために→生産性を上げなくちゃ
は、やることは一緒であっても、背景や思想はまったく異なります。仮に上記2つの考えに至った会社が、生産性向上を協力して行ったら、どうでしょう?

価値観が異なるのだから、同じ「生産性を上げる」という目的でも、取り組む内容も異なってきます。前者は、他国との比較や日本全体の生産性を重視するため、労働時間を増やし、働く人に無理強いしても生産性を上げることを目指すかもしれません。後者では、労働時間を減らしても、より生産性が上がる方法を模索するでしょう。

次第に思想の違いから、ぶつかりあり、ほどなく協力関係は解消するでしょう。

一方で、
・より人生を楽しむために→生産性を上げなくちゃ・より人生を楽しむために→一人あたりの生産性を下げ、ワークシェアリングくを導入しよう
は、どちらも目指している世界観・価値観が同じために、実施しようという方法に違いはあっても、協力しながら生活を圧迫せずアウトプットが出せる働き方を模索していくでしょう。

−−−
と書くと、今では「そりゃそうだ。」と思うでしょうが、従来ビジネスの現場では、背景や思想はどうでもよく、目の前のやることを効率的にやるための協業が当たり前でした。

「思想や企業の哲学なんかどうでもいいから、おたくは何ができるの?」という世界です。

従来は、価値観の対立がほぼなかったのかもしれません。効率的に仕事をする/企業を拡大することを目指し、利益を高める以外の価値観が、ビジネス世界ではほぼ存在しなかったから。


こんな時代がやってきていることを、全共闘世代の人たちはどう感じるのでしょう。

こんなに思想や価値観を企業も問われる時代になるとは? 広告のメッセージが、自社の思想や価値観が中心になるとは?
「売りたい」つまり「成長したい」ということと、「世の中をよくしたい」ということが、密接に連関していることが、はっきりしてきたということですね。そのふたつのことを同時に満たすのが、企業活動であり、ブランディングであるということです。
企業のそもそもの存在価値、哲学に世界的共感がないと、せいぜい一瞬の繁栄で終わってしまう。カスタマー(顧客、消費者)や、世界との「ロングタイム・リレーションシップ(長い関係性)」が構築できないのです。一見遠回りのようですが、社会内存在としてのブランドのビジネスにとって、いちばん重要なことのひとつです。それに、みんな気が付いた。
 ですから、1本のCMでも、トータル・キャンペーンでも、最近はちょっと新しい傾向のものがでてきています。いわば「哲学広告」とでも呼ぶべきものです。via.海外広告が「突然おしゃべりになった」わけ:日経ビジネスオンライン
時代は急には変わらないけれど、ふと気が付くといつのまにか大きく変わっていくものです。企業も哲学・思想が問われる時代。面白いじゃないですか。


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2014/05/13

年収は「住むところ」で決まる時代の、個人への処方箋。


前回のエントリー 年収は「住むところ」で決まる。競争力のある労働市場がなければ都市は発展しない はいろいろな意見が見れて興味深かったです。

都市が主語の話ではあるが、反応の多くは個人が主語のものが多く寄せられました。この本は、都市が財政破綻しないように税収を確保していくための処方箋であり、その処方箋が個人としても参考になるので、多くの人の関心となりいろいろな議論が展開できるのが人気の理由でしょう。

さて、個人としてどうするのか? 今後の身の振り方をどうするのか?という個人主語の問題についての現実的私見を今回は書いておきます。

−−−
経済的に破綻しないという目的(お金なくても幸せは追求できるけど、破綻したら不幸になるのは間違いないので。)で、個人の立場でいえば、都市との付き合い方も大きく分かれます。もちろん、個人もどんな人なのかによって取れる選択肢は変わります



年収議論から始まったエントリーなので、年収を切り口としてケース分類して書きます。本来的にはマーケットに必要とされる技能や付加価値を産み出す能力別が正しいと思っていますが、これが現在の年収とニアリーイコールだという前提です。(個人的には年収を重視することは、意味がないという信念です)


<ミドル層>
大きな課題であり、社会課題はミドル層が維持できることだと思っているのでミドル層から行きます。(人口減少課題よりも、労働者人口減×ミドル層がローワー層になってしまうことのほうが本質的課題なので)

この本に書いてあるように、労働市場の厚みがある都市を選ぶというのも一つの選択肢ですが、その前に「何の職業を選ぶのか?」というのも個人にとっては大きな要素です。労働市場の厚みがある職業を選択しましょう。

先日読んだブログには以下の様な趣旨が書いてあり、すごく実用的な提案だと思っています。
「職業別の働いているプレイヤーの総数を明らかにした上で実力順に並べて何位ぐらいまでがいくらの年収をもらっているというデータが欲しい」(ベンチャー役員三界に家なし)という趣旨を改定あります。

ちょっと引用すると…
何かをつかむ人間、人より秀でた才を持った人間はもう小学校高学年くらいには頭角を現しているはずで、何者でもない自分が、、この斜陽の国の中で食って行くにはどの職業がよいのか?
そういう視点でしか物事を考えたことはなかった。
例えば極端だが、プロ野球選手は日本で750人、プロ棋士は160人程度だ。
アナウンサーは2500人程度。
これはその年の採用人数ではない従事している総数だ。
それに対して、SE、プログラマーは67万人、倉庫業は14万人だ。
どんな職業でも必ずしも実力順に給料が支払われているわけではないだろうが、ただ、やはりその傾向はあるはずである。
その道で食っているの中でランキング最下位の人の収入ラインが350万円くらいというのは、プロ野球選手でもプロ棋士でも、アナウンサーでもSEでもおおよそ同じはずだ。
とすれば、あまりにも規模と食えるようになるレベルに差がある。
職業として同じレベルに並べるのもおかしいほどなのだ。
アナウンサーを目指す人は日本で実力3000位ならその職で生活することすら不可能だが、SEで3000位なら年収はそれなりによいはずだ。いやむしろかなり良いかもしれない。
この職業と食えるレベルに対する難易度を少年少女にはきちんと説明すべきではないのか?
親自身も社会も、「子供には無限の可能性がある。」と言った美辞麗句を盾に、職業選択とその後の現実に蓋をするのはあまりにも無責任だ。

そう。職業選択を現実的に考える方法が大事で、戦略的に自分の実力でもそこそこの年収がもらえる市場を選んでください。今後の未来予想も含めて。そして、その中で頑張って実力をつけていってください。実力がついたら他の選択肢も出てきます。自分の将来のために。

そして、ハイエンド層への処方箋に踊らされずに、自分向けの戦略を虎視眈々と実践してください。

<ローワー層>
職業選択の自由を得られるように教育に投資したほうがいいです。でも、それができないようであれば、愛想良くする能力を磨いて、どこかの社長さんに仕事を面倒見てもらえるようにするというのも一つの手です。

※たぶん、ここで実践的な方法を書いたとしてもメッセージは伝わらないし、伝わったとしても実践しないと思うのでこのぐらいでw

<アッパー層>
※資産家レベルではなく、年収1000万円クラスの職業によって給与収入で暮らしている層をイメージ

この層は、むしろもう年収を目的にすることを見なおしたほうがいいと思います。同じ年収レベルの人と同じような暮らし競争をしようとして、出費も多くなっているはずです。

まずは自分たちの価値観をちゃんと見なおして、年収基準の暮らしよりも、自分たちの価値観としての暮らしの優先順位などを見なおしたほうがいいです。

その上で、自分の能力を今後どのマーケットで使っていくのか?暮らし方を前提に考えていったほうがいいでしょう。

見直すべきは支出やローンのほうです!ファイナンシャルスキルを磨いたほうがいい層です。所得貧乏にならないように。そうすれば、ハイエンド層のような年収や住むところの自由を得ることができます。

<ハイエンド層>
金額の大きさというよりも、会社から給与収入をもらうのではなく、自分の資産やビジネスモデルを有している人であれば、
もはや年収は「住むところ」で制約される必要はありません。

この記事にあるように
「オフィスのない会社」の創業者が提言:住む場所が自由になるワークスタイルのすすめ
のように、「住むところ」にとらわれなくてもいい雇用の生み出し方や、豊かな暮らし方をどんどん提案していってください。社会を変える力を持っている方々だと思うので。

ハイエンド層という名前にしましたが、自分でビジネスモデルを持っていたり、金銭ではない収益を得ることで年収にも住む場所にもとらわれない生き方をしている人もここに入ります。彼らも同じく社会に新しい提案をすることで、社会を変える力を持っているのだと思います。こういう人たちにとっては、これから課題がたくさんある地方がむしろ面白いと思っています。
(ただし、最初のケース分類で提示したように、マーケットに必要とされる技能や付加価値を産み出す能力別なので、そういう意味で彼らは間違いなくハイエンド層なのです)



人によって取れる選択肢は異なります。そんなこと言うと不謹慎なようですが、実践的なアドバイスをするためにはこれは無視できない事実だと思っています。

取れる選択肢を増やすためには、マーケットに必要とされる技能や付加価値を産み出す能力を磨くしかありません。そのためには教育や経験、仲間などの人的ネットワークを築く機会が重要。これが小さい頃から自覚できるようになったらいいのになぁ。

現実社会の「ゲームのルール」を教えてもらえないのは、かわいそうなことだと思います。


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2014/05/07

年収は「住むところ」で決まる。競争力のある労働市場がなければ都市は発展しない



年収は「住むところ」で決まる。なかなか売れそうな邦題を付けた書籍です。もともとのタイトルはTHE NEW GEOGRAPHY OF JOBS。この本の第三章「給料は学歴より住所で決まる」をもとに付けた名前でしょう。

感覚的に都市競争ってそうなっているよね、ということを論理的にデータも含めて論証した今話題の本です。

いくつか抜粋して紹介していきます。


トーマス・フリードマンはグローバル化をテーマにした著書『フラット化する世界』で、携帯電話、電子メール、インターネットの普及によりコミュニケーションの障壁が低くなった結果、ある人が地理的にどこにいるかは大きな意味をもたなくなったと主張した。この考え方によれば、シリコンバレーのような土地は存在感を失っていくことになる。シリコンバレーが栄えているのは、ハイテク関連の仕事をする人たちが密集しているため、緊密に連携しやすいからだ。しかし、人と人が物理的に接触する必要がなくなれば、こういう土地の強みは失われてしまう。 

もっともらしい議論だが、データを見るかぎり、現実の世界ではこれと正反対のことが起きている。アメリカのイノベーション関連の雇用は増えており、その増加ペースはほかのあらゆる業種を大きく上回っている。


イノベーション産業の誘致がいかに重要かについても指摘している。
 イノベーション産業の成長があらゆる人にとって大きな意味をもつ理由はもう一つある。「雇用の増殖」とでも呼ぶべき魔法のような現象が生まれるのである。イノベーション関連の産業は、その分野の企業が寄り集まっている地域に高級の良質な雇用をもたらす。それが地域経済に及ぼす好影響は、目に見える直接的な効果にとどまらない。研究によると、ある都市に科学者が一人やって来ると、経済学で言うところの「乗数効果」の引き金が引かれて、その都市のサービス業の雇用が増え、賃金の水準も高まることがわかっている。 

 ハイテク産業は、雇用全体に占める割合はごく一部にすぎなくても、地元に新しい雇用を創出する力は飛び抜けて強い。都市全体の視点に立つと、ハイテク産業で雇用が一つ増えることには、一つの雇用が増える以上の意味がある。この産業は、地域経済のありようを大きく左右する力をもっているのである。

都市間競争について起きていることは、まさにこの二極化が起きている。


従来型産業を中心とする経済と異なり、知識経済ではどうしても繁栄が一部に集中しやすい。この新しい経済は先手必勝の性格が強く、都市がどのような未来を迎えるかは、それまでの歩みによって決まる面が大きい。反映している都市はますます繁栄していく。イノベーションに熱心な企業は、イノベーションに熱心な都市を拠点に選ぶ傾向があるからだ。イノベーション分野の良質な雇用を創出し、高度な技能をもった人材を引き寄せた都市は、そういう雇用と人材をさらに呼び込めるが、それができない都市はますます地盤沈下が進むことになる。
結局は、都市の魅力を増すためには、高付加価値な仕事を与える新しい産業・仕事が必要だという結論になっている。
 大ざっぱに言えば、経済的に苦しんでいる都市の経済を活性化させる方法は二つに一つだ。一つは、労働市場の需要再度のアプローチ。雇用主である企業を誘致し、その結果として高技能の働き手が移住してくることを期待する。具体的には、その都市を企業にとって魅力的な場所にするために、税制優遇策などの奨励処置を導入する。もう一つは、供給サイドのアプローチ。町の住み心地をよくすることで、高い技能をもった働き手を引きつけ、それを追って企業が進出してくることを期待する。端的に言えば、前者は企業を「買収」する政策、後者は働き手を「買収」する政策と位置づけられる。

さらに、この本で面白いのはリチャード・フロリダの主張(クリエイティブ人材が集まる寛容な場所が経済発展する)をぶった切っていることだ。その事例として、ベルリンをあげている。

この10年以上、ベルリンはドイツ国内で最も失業率が高く(全国平均の二倍に近い)、住民一人当たりの所得の伸びは国内で下から二番目にとどまってきた。ドイツでは抜きん出て刺激的で創造的な都市であり、ヨーロッパで屈指のクールな町であるにもかかわらず、ベルリンは堅実な経済的基盤を築けていないのだ。同性愛者であることを公表している進歩的な市長―この町のボヘミアンな雰囲気を象徴する存在だ―は、ベルリンを「貧しいけれどセクシー」な町と呼んだことがある。
ボヘミアンが集まってきても、高い給与をもらえる仕事がなければ、労働市場も都市も活性化しない。

以前、このBlogでポートランドでに行った時の考察でも同じような結論に達しました。世界的な大企業から小規模な個人までの絶妙な生態系でした。



そして、この都市圏で見た場合にポートランド都市圏の生態系が絶妙によくできているのです。
このエントリーで書いてきたように大企業の雇用があり、それに付随して必要となるクリエイティブ系の雇用があり、そのため個人で価値を発揮すれば商売ができるという生態系がうまくできているところが絶妙だと感じました。(【ポートランドで考えた】その2:小さな都市でも、地政学的強みを活かした生態系が絶妙!|空気読み一人シンクタンク


この本で示しているデータで一番おもしろかったのは、“上位都市の高卒者は下位都市の大卒者よりも年収が高い”“大卒者の割合が多い都市ほど、高卒者の給料が高い。というもの。このデータをベースにサンフランシスコで起きたグーグルバス問題のような階層対立ではなく共生がうまく進むといいのですが。。。


アメリカですでに起きてしまった都市の二極化は、日本でもすでに始まっているように感じます。だからこそ、この本を読んで今後の都市のあり方、移住のあり方を考えておくタイミングだと思います。


特に日本では、徳島の神山の事例のようにIT系の企業誘致をすることで新しいタレントを集めて、地域活性につながっている事例だってあるのだから。いまなら、東京一極集中以外の方法も模索できる時期だと思っています。


いろいろな議論ができるこの本、面白い!



年収は「住むところ」で決まる

エンリコ・モレッティ著

日本語版への序章 浮かぶ都市、沈む都市

1. なぜ「ものづくり」だけでは駄目なのか
 製造業の衰退は人々の生き方まで変えた
 リーバイスの工場がアメリカから消えた日
 高学歴の若者による「都市型製造業」の限界
 中国とウォールマートは貧困層の味方?
 アメリカの製造業の規模は中国と同じ
 結局、人間にしかできない仕事が残る
 先進国の製造業は復活しない
2. イノベーション産業の「乗数効果」
 イノベーション産業の規模と広がり
 エンジニアが増えればヨガのインストラクターも増える
 ハイテク関連の雇用には「五倍」の乗数効果がある
 新しい雇用、古い雇用、リサイクルされる雇用
 本当に優秀な人は、そこそこ優秀な人材の100倍優れている
 アウトソーシングが雇用を増やすこともある
3. 給料は学歴より住所で決まる
 シアトルとアルバカーキの「二都物語」
 イノベーション産業は一握りの都市に集中している
 上位都市の高卒者は下位都市の大卒者よりも年収が高い
 隣人の教育レベルがあなたの給与を決める
 「大分岐」と新しい格差地図
 健康と寿命の地域格差
 離婚と政治参加の地域格差
 非営利事業の地域格差
4. 「引き寄せ」のパワー
 ウォルマートがサンフランシスコを愛する理由
 魅力的な都市の条件1 厚みのある労働市場
 魅力的な都市の条件2 ビジネスのエコシステム
 魅力的な都市の条件3 知識の伝播
 頭脳流出が朗報である理由
 イノベーションの拠点は簡単に海外移転できない
 変化に適応するか、さもなくば死か
5. 移住と生活コスト
 学歴の低い層ほど地元にとどまる
 「移住クーポン」で失業を解決できるか
 格差と不動産価格の知られざる関係
 町のグレードが上がると困る人たち
6. 「貧困の罠」と地域再生の条件
 スター研究者の経済効果
 バイオテクノロジー産業とハリウッドの共通点
 シリコンバレーができたのは「偶然」だった
 文化やアートが充実していても貧乏な都市
 大学は成長の原動力になりうるか?
 「ビックプッシュ」の経済学
 20世紀のアメリカに「産業革命」をもたらした制作
 産業政策の可能性と落とし穴
 補助金による企業誘致の理論と実際
 地域活性化策の成功の条件
7. 新たなる「人的資本の世紀」
 科学研究が社会に及ぼす恩恵
 格差の核心は教育にある
 大学進学はきわめてハイリターンの投資
 世界の数学・科学教育レース
 イノベーションの担い手は移民?
 移民政策の転換か、自国民の教育か
 ローカル・グローバル・エコノミーの時代





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2014/04/22

都市競争の時代に、東京は日本の首都であるべきなのか?


資本主義とテクノロジーの進化によって力を持ち始めたのは、国を凌駕する影響力を持ったグローバル企業と、国に頼る必要のなくなった個人。この2つの種族が有利な立場になり、一方で相対的に力を失ったのが国家でしょう。

そして、この2つの種族を引き寄せる力を持っているのが、魅力ある「都市」。シティセールス、有能な移民の獲得競争、企業誘致競争、都市間のアクセスを良くするインフラ投資、税金の優遇策…と、都市間競争は世界的に見るとホットな分野です。

もちろん東京は世界の都市競争で戦える土俵にいるわけですが、東京が日本の「首都」であることが、都市間競争で戦略的なポジションを取りづらくしているのではないでしょうか?


「都市の理論、国家の理論」 Follow the accident. Fear the set plan.には、こんな記述がありました。


ビジネスは規制の少ないところを求めて移動する。人はより大きな自由やチャンスがあるところに移り住む。とはいうものの、国境を超えて移動するのは今日でも簡単ではない。 
移民やビジネスの規制が撤廃された完全に統合した世界では、より良い場所を求めてビジネスも人も移動を続けるのだろう。そして都市間にはより激しい競争が生まれるはずだ。 
そうした環境下では、世界の都市はジップの法則に収斂するのかもしれない。私たちがよく口にする「グローバル化」は、ジップの法則に近づくことだとしたらどうだろう。 
都市は自律的に成長し、統計区分や州などの「小さな恣意性」をのみこんでいく。だが国家という「大きな恣意性」をのりこえることはできない。 
都市はみずからの論理を追求し、国家はそれを抑制しようとする。本来的に相反するこのふたつの力が背中合わせの「首都」ほど奇妙なものはない。


もちろん、シンガポールやモナコのような都市国家は、他のエリアが存在しないのだから矛盾を抱える必要はないでしょう。

国家としては、全体最適を考えなければならない。不採算部門だからといって切り捨てることはできない。そうすると成長部門に資源の配分を行う原資も、不採算部門を維持するために使わざるを得ない…。この力学は首都である東京が尖った戦略をとりづらくしている。

まるでかつての日本を代表する企業が成長戦略を取れずに、一方で世界マーケットに勝負しているベンチャーが資源は少なくとも尖った戦略を取りマーケットを奪われているのと同じ構造。。。

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じゃあ、どうすればいいのか?

小さい単位ごとに尖った戦略を取れるようにするしかない、と考えています。つまり日本→首都=東京という捉え方ではなく、東京=集合体(新宿、原宿、渋谷、品川、秋葉原…)として、小さい単位での都市競争を優先させる。その上で、それらの魅力あるエリアの集合体として、東京という競争力のある都市となる。実際、東京が世界の都市間ランキングで上位に入っているのは、この魅力あるエリアの集合体での東京都市圏の評価が大きのではないでしょうか。

さて、首都は東京という決まりは必要なのでしょうか?
「国の機関は東京に集中しているけれども、首都だからあるわけではなくて、都市として便利だからたまたま日本の中で東京にある」ということのほうが都市間競争の時代においてはメリットがあるでしょう。機関ごとにより便利な都市があれば移転を選択すればいいでしょう。

首都機能の移転とかそういう議論ではなく、首都という概念を辞めるほうがスマートに感じます。

もはや首都という冠が邪魔になる時代なのであれば、それを返上するという選択があっても、面白いと思うのですが。国家の時代から都市の時代を経て、個人にパワーがシフトしていく流れの中での、エポックメイキングな出来事になると思うのですが。

極論でしょうか?

追記:いろいろ調べていると、東京が首都だという明確な法律はないとのこと。(wikipediaからですが)


2014年現在、日本の「首都」は、一般的に東京都ないし東京と解されている。これは、日本の法令で初めて「首都」の語を用いた「首都建設法」(昭和25年法律第219号)が、東京都を首都と解していることによるところが大きい。ただし、同法は1956年に廃止されており[1]、現行の法令で「首都」について直接的な表現を用いて定めるものはない[2]
日本では歴史上天皇による朝廷の下に、国際的には時に「日本国王」「日本国大君」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京京都両京制(東西両都)などの面から首都の議論があり、現在も法律上では「どの都市が首都であるか」という明確な定義がなされていないため、「首都は現在の首都圏にある東京である」という意見の他、「現在も京都と東京という2つの首都が並存している」「京都が正式な首都である」等、様々な首都論・首都認識がある。 
ますます「首都」である必要性がわからなくなってきます。。。

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2014/04/18

大きなシステムに文句を言う暇があったら、小さな範囲でも課題解決に取り組む。



前回のエントリー「40代以下の世代は、自分たちは「マイノリティだ」と早く認識したほうがいい理由。」には、いろいろな意見が集まって、書いた自分が一番勉強になりました。

・一番、損するのは30代以下では?
・もらえるうちに上の世代からもらうべきでは?
・高齢者と若者世代で対立を煽るよりも、40代50代が社会システムを変えていくべきでは?

同意コメント以外では、上のような意見が多かったように思います。

まあ、そうなんですけどねー。上のような意見をいただいた上でも自分の意見は「現状維持を望む人がマジョリティの議会制民主主義の国に住み、危機感を感じるマイノリティは、システムの変化を望むよりも自分たちがサバイブできる準備を(マジョリティの後ろ指をさされようが)しておくほうがいい」というもので変わりありません。


この背景にあるものを、もうちょっと伝えておきたいと思います。

世代間闘争(逃走?)のつもりは一切なく、むしろ若い世代が高齢層と戦うことは無駄なことにパワーを使うだけです。なぜなら敵は高齢者ではなく、あくまでこの国のシステム(とくに社会保障)だから。

高齢者世代の人たちは、自分たちがマジョリティとして主権を行使しながら、自分たちが生きるのに最適化した社会システムを作ってきました。そして、自分たちが今後、収入の不安が年代になってから(そのために作ってきたのが今の社会保障システム)、自分たちを犠牲にした改革に賛成できるはずがありません。

そして、彼らが選挙というシステムではマジョリティなのです。もちろん消費者としても。

だとしたら、主役が交代になる時期が来ない限り…大きな危機が来ない限り…。別の力学がはたらいて現システムを変えるようなことはまずないでしょう。

ちなみにドイツでは、年金の支給年齢を引き下げるという驚きの動きがあるようです。。。


ドイツと日本は両国とも、現在、出生率がほぼ1.4。平均寿命は日本の方が少し長いが、これも似たようなものだ。つまり、どちらもまさに同じ"少子高齢化"問題を抱えているわけだが、現在ドイツでは、こともあろうにそれを無視して、国を滅ぼすような改革が行われようとしている。年金支給開始年齢を63歳に引き下げるのだ。

だからこそ、マイノリティであり、現社会保障システムに反対の個々人が未来に備えることしか現実的な選択肢がないのです。

個々人も、自分の持っているリソースや資質によって、選択肢は異なるでしょう。

海外に移住して別マーケットでチャレンジする、日本で着々と将来のために備蓄していく、自分の世代はすっとばして子供の世代に教育としてサバイバル力をつける動きをする…それぞれが自分の判断で動けばいいでしょう。

変えられる範囲を小さく設定しての取り組みが多くなっているのも必然です。国という大きな単位ではなく、あくまで地域としての街の課題に取り組むことに、引かれているのもこの世代です。また、特定の社会課題に取り組むプロボノ的な活動を加速させているのもこの世代です。

あえて繰り返します。国という大きなシステムを変えることで消耗しているよりも、小さな範囲でも課題を解決する活動を行いながら、経験を積むほうがずっと前向きです

そう。大きなシステムを変える前に、“小さな範囲でボトムアップでの改善経験を積み重ねる。”これが30代・40代が取り組むべきことなのです。自分の力も時間も無駄にしないように、少しでも改善できることに力を使いましょう。


まるでゲリラ戦のように、同時多発的に未来に向けた改善を行うしかないですよ。ね。

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2014/04/14

40代以下の世代は、自分たちは「マイノリティだ」と早く認識したほうがいい理由。



ここ数日考えていたのは、自分たちはもはやターゲットではないということ。日本の人口動態的にも、現在の日本のマスターゲットは、高齢者です。

メディア事業を考えるときに、縦軸を単価(LTV)。横軸をターゲット人数とおいて、長方形の面積が大きさを頭に入れて考えますが、高齢者はまさしくこの面積の最大化で正しいのです。(将来価値を考えた投資ではなく、現在最適化の短期戦略としてw

ニュースキャスターの「パワポ知らない」発言

ターゲットが高齢者であれば、この発言は正しい側にいると言えます。僕は見てないのですが視聴者がネットで話題にしたということは、やはりマスメディアはターゲット以外の人にも伝わる力を持っているという証明になっているのかもしれません。



もし私が日本の若者なら、他の国への移民を考える。日本に明るい未来は見えないからだ。 by リー・クアン・ユー(中山道子さん)

このエントリーから引用すると。
"私が子供だったころは、日本でテレビを見れば、私が、どの年齢であったときであっても、また、どの時間帯にテレビを見ようとしても、地上波では、必ず、「私の世代をターゲットにした番組がメイン」だったのに(皆さん、今でもそうではありませんか?)、それに対して、我が子にテレビを見させようとなると、まあ、そもそも、あまりたくさんは見させないほうがいいのでしょうが、それにしても、細かく番組表を確認して、録画しないとだめなのです。
その理由は、もう皆さん、実感済みの、これですね、、、すでに、2010年の段階で、0歳から14歳までの人口が、総人口に占める比率は、13%台に過ぎず、この層(のその親)は、購買力も、たいしたことがない。もはや、地上波にとって、メインターゲットとはなりえないのですね。。。"
ここからがもっと大事。

"「過去の親子関係」を思い出してみると、今の50歳くらいの世代までは、親(敗戦から立ち上がった世代)の背中を見て育ち、日本国内で、大企業などに職を求めることができれば、確かに、それが上策だったと思うのです。しかし、今の時代、日本では、若い世代は、親世代が経験したことのない環境(多くの産業において、経済規模が拡大するのではなく、縮小していく)の中、日本の立ち行く道、自分の生きる道を、手探りで、一から、切り開いていかなければいけません。これが厳しく聞こえるとしたら、それは、今の世代の日本人の認識が、甘いからで、ぶっちゃけ、戦後直後の日本を始め、現代日本以外の国や状況では、これは、常識だとは思いますが、ただ、政治の場において、このような戦略的な動きを若年層が主導できるくらいなら、地上波テレビは、そもそも、「年寄り向け」になっていないでしょう。"

そう、大事なのはこれで、もはや上の世代のルールは諦める必要があるし、本来なら未来を考えて30代40代は主導権を取っていかなければならないが、高齢者という既得権側に対抗できていないまま。。。

でも、現実的で実践的に一つできることがあるとすれば、(自分のためにも社会のためにも)「上の世代のルールに従わずに、生きていく」ことでしょう。上の世代の敷いたレールはJR北海道だと思うぐらいのシニカルな目線で。(維持コストが半端なく、もはや迷惑



「トイレ共同。風呂共同。」は夢か現実か(シロクマの屑籠)

"90年代以来の、スタンドアロンなライフスタイルのほうが夢だったのかもしれない。親の代までに集積した経済力によって支えられてきたライフスタイルは、その経済的基盤が失われれば成立しなくなる。高度成長期~バブルの徒花のようなものだ。にも関わらず、そのような暮らしをスタンダードとみなし続けるのは、白昼夢に近い。"


"1980~90年代にかけてつくられた諸々のスタンダードのなかには、経済的/人口動態的な存立条件が失われてきているものが少なくない。そういった、存立条件が崩れてきているスタンダードは、しばらくは惰性で持続するにせよ、やがて消えていくと考えられる。"

上の世代どころか、自分たちが若い頃・もしくは今も享受しているものも、今後どうなるのかわからない。

高齢者世代もしくは50代ぐらいまでまでは、現在のルール上でも生き残っていけるし、時間的な危機感はここまで必要ないかもしれない。

しかし40代以下は社会的にマイノリティだ。既存のルールに合わせるための努力をいくらしてもマイノリティとレッテルを貼られるだけ。だとしたら、日本社会のマジョリティに後ろ指をさされても、サバイブする方法をトライ&エラーして学習していくほうが、ずっと現実的なんじゃないかなぁ。

なんとなく、他の人の記事をカットアップしながら、DJスタイルでお送りしました。


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2014/04/08

「移動は投資」



いつも僕の心を揺さぶってくれるブログに「お互い強く生き抜きましょう」というエントリーがありました。本人を知っていることもあり、なおさら心に響きました。

“移動はコストでもリスクでもない。移動は投資です。移動が投資とすれば、なんのリターンがあるのか。リセットできること、です。”


“ぼくはこれからの時代、強い主観が大切とかんがえてます。移動によってこの主観が磨かれる。客観的にみようとすればするほど主観が磨かれます。

個人で生き抜くことが求められる時代に、
自己完結の力は必須でして、そこに強い主観がないと生き抜けないとおもうからです。”

実際本人はここ数年で、浜松→中国のハルビン→中国の西安→フィリピンのフォート・ボニファシオと移住しながら、事業を起こしてきています。(不動産事業だったり、就職斡旋事業だったり、飲食事業だったり…)。

新しいマーケットを知るためにその国に移住し、そこで何が事業としてできるのかを考える。外部からの目線を持っているから、他のマーケットとの差異が見える。だからこそ、新しい事業チャンスを見出すことができる。

さらにすごいのは、数年でその都市での事業オペレーションを作って(つまりある程度手離れできるようにして)、次の都市へとまた移動する。

===

こういったケースだけ見るとすごく特別なことのように感じてしまうかもしれませんが、普遍的なものが「移動は投資」という思想にはあります。

“移動によって、客観的に見ようとすればするほど主観が磨かれる”がまさにそうです。客観的に異なるものを見ていくと、自然に自分の中に「ものさし」ができていきます。これがものすごい武器になります。

複数の視点という「ものさし」を持っているからこそ、見えてくる「発見」「抜け道」「切り口」があるのです。この複数の視点は、都市の違いということだけではありません。複数の業界、複数の仕事、複数のコミュニティ、複数のプロジェクト、複数の趣味…なんでもあてはまります。


客観的に複数のモノを経験するためには、取捨選択が伴います。一定の自分のリソースの中で、新しい経験をするためには、何かを捨てて新しいことに挑戦しなければ視点は磨かれません。移動するために、時間を確保して身軽にして、新しいところに飛び込むのとまったく同じです。

旅をしょっちゅうしている人は、取捨選択することや、新しいものに乗る決断をすることに慣れています。

「移動は投資」という思想をもって実践している人は、「ものさし」という視点と、取捨選択して動けるという2つの大きな武器のトレーニングをしているとも言えるかもしれないですね。





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2014/04/03

「何事も全力で」から「楽することをサボらない」へ




新人社員に送る、社畜にならないための4つの習慣。(デマこいてんじゃねぇ!)というエントリーがいかしている。

いろいろと書いてあるが、このエントリーは以下の一言に尽きる。

“アウトプットが同じなら、ラクしている人のほうがすごいのだ。”



自分が新入社員の時に言われたのが、「早く、力の入れどころ、抜きどころを覚えろ」というアドバイスだった。

見極める力がないころは、すべての仕事・タスク・作業が等価に見えてしまい、すべてのものに全力でぶつかっていってしまう。

仕事への相場観ができ、凹凸が見えている先輩の目からは、新人の仕事への態度は、仕事の重要性を無視し、リソース配分を考えない、無計画性ばかりが目についたのかもしれない。

全力でやり続けていたら、長くは続かない。どこかで重要な仕事で大きなミスをしてしまうかもしれない。。。

−−−

「何事にも全力で」ということを、美徳としている人もまだまだ多い。日本社会全体でいえば、まだまだこっちが主流だろう。

勤勉さを否定はしないが、それが報われるという前提で“勤勉さ”の押し売りをされると、すごく気持ち悪い。


個人的に大好きな商品やブランドのいくつかは、職人の丁寧な仕事によって生み出されるものだ。でも、それは生み出される商品が素晴らしいからであって、苦労が好きなわけではない。手間をかけるだけの意味のある作業を見極め、ちゃんとそこを大事にしているから好きなのだ。


−−−

マーケットが成長しているときには「何事も全力でやる」ことが、“結果的に”多くの人におすすめできるアドバイスだった時代があった。その時の教訓を、時代が変わっても引きずってしまっている。

今は、“どこがポイントなのか?”や“何に力を入れるべきなのか?”を見極めることが非常に重要だ。本気で全速力でアクセル踏みまくる前に、軽くテストして見極めることもずいぶんと市民権を得てきた。

でも、それは、“いかに手を抜くのか?”“やらなくてもいいことはなにか?”を見つけられることの重要性も指している


「楽をしよう!手を抜こう!」という言うと社会的な抵抗感がまだあるならば、「楽をすることをサボらない」ぐらいの楽することの勤勉性を、ヤレヤレ感を出して訴求するぐらいで、ちょうどいいのかもしれない。

蛇足:だとするならば、“手抜き修行”とか“適当な人になる講座”とかのマーケットが立ち上がってきてはじめて、社会的に「手抜き」や「楽する」ことの価値が認められるようにようになるのかもしれない。それはそれで息苦しいけど。


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2014/03/31

“もうスーツなんか着ている余裕はない”という世界


ここのところ、まったく違う観点で服装について書かれたエントリーが目に留まりました。

学生のための「ドレスコード」入門〜「面接は私服でOK」の本当の意味:大石哲之のノマド研究所


NYで流行ってるらしい「Normcore」(究極の普通)とはなんぞ - Pebbles


前者は、服装はTPOに合わせて(ドレスコードに合わせて)選択するというルールについて説明し、だからこそ面接はビジネスモードで行くということ。


後者は、“既存のファッショナブルさに対する懐疑、快適さ重視のスタイルの肯定”として、ファッショナブルな人ほど“普通の格好”をしているトレンドについてとりあげています。


===


依然として多くの仕事は、ビジネスというコードが存在しています。就職するというのは、まだまだそういった世界です。(前者の記事の世界)


一方で俯瞰的に世界で起こっていることを見ていると、スーツを着て、デスクに座ってできる“定型的”で“説明責任の強い”仕事や、“ハイファッション着て、パーティに出て自分の村で仲良くやっていればいい”仕事がどんどん減っていき、カジュアルに動いて頭つかって汗かいて生み出さなくちゃ、生き残っていけなくなっているという現象もあります。(後者の記事の世界)


だからこそ、従来通りのホワイトカラー的な世界を目指すには、狭き門を勝ち残ることが必要になります。一方で、後者の世界で生きていくためには、もうスーツなんか着ている余裕はないのです。



スーツというコードに代表される社会ルールや業界ルールを守っていれば弾き飛ばされない世界よりも、服装がカジュアルで自由そうな世界のほうが、より厳しい環境なのだと思います。



もちろん、これからのことを考えると、カジュアルの世界でも生きていく力を身につけておいたほうが、スーツの世界でも活躍できるチャンスは増えるでしょう。


もうみんな平等にそこそこ楽できる時代は長くはありません。カジュアルな世界は、社会のコードよりも、自分自身のライフスタイルや価値観が問われる世界。自由には責任が伴う世界。残された時間は、あと10年ぐらいだろうか?それとも…。




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2014/03/26

今、異文化がぶつかりイノベーションが起こる場所はどこなんだろう?


今、異文化がぶつかっている場所はどこなのだろうか?

どうしてこんなことを考えているのかというと、歴史を鑑みてもイノベーションが起こるのは、異文化がぶつかる場所だからだ。

 
例えば、上記の本で書かれている“12世紀ルネサンス“では、「異文化がぶつかるときに、新しいものが生まれる」ということを歴史的に実証している。

 西欧社会から失われていた古代ギリシャの文明や科学を、アラビア世界経由で再発見した時代。宗教的な違いや言語の違いを超えて、アラビアに真実の学問があると学んだ人々。そして、イベリア半島などの文化がぶつかる地点の重要さが書かれている。


音楽だってそうだ。


レゲエがジャマイカで生まれたのは奴隷として運ばれた人の文化と、アメリカから入るラジオの音楽という文化が影響しあって新しい音楽が生まれたと言われている。ジャズにしろ、ヒップホップにしても、文化が出会って生まれてきた。




異文化が出会う場所は、地政学的にみると、港町が多かった。外国の船がやってきて、新しいものが持ち込まれる。そこに集まるのは、交易を商売にする商人など“差”がビジネスになると気がついていた人々だ。だからこそ、“差”を排除して安定を求めるよりも、“差”を面白がって売り出すほうに自然と向かった。


そう。重要なのは“異文化が出会う場所”では、新しいものに触れてインスパイアされる環境があり、そしてそこから生まれたものを面白がる環境の2つが同時に存在していた。



さて、元の問いに戻ろう。「今、異文化がぶつかり、新しいものが生まれる場所はどこなんだろう?」

ネットの中だと思う人もいるかもしれない。しかし、僕は違うと思う。いくらネットで情報交換が行えるようになったとしても、リアルの社会に偏った場所にはかなわない。なぜなら、新しいものにインスパイアされる出会いは“顕在化”しているものではない。だからこそ、出会い頭で、ショックのような感情を揺り動かす体験が伴い、新しい創作意欲が湧いてくる。顕在化してないから、検索して出会うわけにはいかない。


ネットは、すでに見つけた道を掘り下げていくときには、非常にいいツールだ。だけど、自分に影響を与えてくれる新しい道を見つけるようなランダム性は偶発性はリアル社会のほうが強い。


今、異文化が出会い、新しいものを受け入れる環境にあるのは以下のような場所だ。


1:経済的に成功チャンスが高まるプラットフォームを持った都市(ニューヨークや上海、シリコンバレー、最近ではオースティンとかも。アジアの新興国の都市もここに入る)


昔、交易で栄えた都市が担っていたのと同じく、今でも経済的なチャンスがある都市には、世界中から人が集まり、異文化が出会い、それを商売とする人が現れる。この都市の位置づけを都市は競っているし、世界中からタレントを集めるの戦いが行われている。


東京は、1のポジションを取るだけの経済的なポテンシャルも規模もあるけれども、新しいものを受け入れる“受容態度”に問題があることで、大きな損失をしているような気がしてならない。


2:経済都市としての魅力が相対的に低い分、馬鹿者にチャンスが与えられる地方都市(デトロイトや日本の地方都市。経済的なものではなく、自然など人を引きつけるものがある場所)


一方で、全く逆の動きもある。廃れてしまったことにより、隙間が生まれ、経済的な負担の必要性が低く、新しいことを仕掛けたい人があえて集まる場所もある。合理的ではない判断で、自然や人に惹かれてやってくる少数のタレント同士が化学反応を起こすことで新しいものが生まれてくる場合である。当事者たちはまったく意識していないでしょうが、ある種のリバースイノベーション(※)なのかもしれない。

これまでのグローカリゼーションが、先進国で製品開発を行い、その商品をマイナーチェンジした廉価版を新興国向けに投入してきたのに対し、リバース・イノベーションでは、新興国市場に合った商品を一から生み出す「イノベーション」を行い、その商品をリバース(逆戻り=逆流)させ、先進国に投入する



もちろん、こういうことを考えているのは、自分が今いる場所が“化学反応が起こる場所”なのかを気にしているからだ。せっかくなら、異文化がぶつかって、その差異を認め合い楽しめる世界のほうにいたいから。

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