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2014/12/26

[今年の振り返り]疑問は武器、危機は機会、仕事は研究、変化は能力、効率より混沌etc.



一年という区切りが社会で共有できているおかげで、12月31日と1月1日の間には大きな断層があります。今日が終わって明日が始まるだけなのですが。これって毎日繰り返されていることなんですよね。

一年という区切りのおかげで、12月は本当に忙しい時期でした。そしてせっかくある区切りなので、心を落ち着けて2014年をこのBlogを眺めながら振り返ってみました。


2014年のBlogを見返してみると、書いてきたモットーは以下のようになりました。

移動は投資
失敗は財産
疑問は武器
危機は機会
仕事は研究
生涯学習仕事
変化は能力
効率より混沌
文句より改善
努力の目利き
見るべきは自分

双子の育児が本格化し、保育園に行っている間が仕事ができるコアタイム。それ以外は基本育児時間。これが大きな環境の変化であり、いい感じで負荷がかかってこの環境でやれることをやっていくことに愉しみを持てた一年。(前向きにいえばw)

まさに“危機は機会”。結果的に労働時間が減って売上が上がっているのはいいことではないかと思っています。(もちろん売上を上げることが目的ではないのですが)。夜の飲み会にもまず参加できないわけで、そういったものも含めるとドラスティックに自分のライフスタイルが変わった年です。

一方で激減したのが“お茶飲み話”的なゆとりある一見無駄と思えるようなおしゃべり時間。どうしても限られた時間で人並みに…と考えるとこういった時間が大きく削られてしまいました。。。

−−−
2015年は「移動は投資」の分を、取り戻していきたいと考えています。もちろん今年も家族親族の協力で移動は思った以上にできているのですが、移動できる能力がある家族になっておきたいなぁとあらためて思っています。

移動することで、日常を旅人のように捉える目を養う。環境変化に柔軟に対応できるようにしておく。好奇心を中心とした移動しながらの仕事を組み立てていく。目についた差異に疑問を持ち自分の頭で考えていく…といったように上に書いたモットーを誘発するのが移動だからです。

と考えていくと、2015年も“この環境である”ことを愉しんで暮らしていこうという気になってきました。来年もよろしくお願い致します。


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2014/12/10

子育て世代に必要な"1way,2jobs"思想。両立を目指さず、公私混合しよう。


以前このブログでも書いたことのある中小企業庁からの受託事業だった自由大学クリエイティブスクール女性起業コースが先週終了しました。

僕自身が双子の育児と仕事のごちゃまぜ生活なのですが、自分で仕事を創ることをやっているので、まだなんとかやっていけています。そして、育児中なのを逆手に取って、上記のような新領域を始めてみました。

女性が働くときの選択肢とき、会社に勤めていままでどおり普通の人として働くって、企業にとっても・個人にとっても不幸だと思う時があります。企業にとっては“新しい視点”を手に入れた人を普通の人と同じ用途で使うのは損失ですし、個人としても、努力で普通の人と同じことを強いられても、スーパーウーマンでない限り無理です。

そこで、その他の選択肢として、いっそ創業するという選択肢があってもいいはずです。(創業している場合の保育園への入学資格としての点数が高くなるといいなぁ)


−−−
前置きが長かったですが、要は「育児と仕事の両立」という目標設定は間違っている、ということを言いたいのです。

いままでどおり一人というリソースで、1(育児)+1(仕事)=2の結果を求めていて、さらにそれを精神論や努力で乗り越えている状態と言ってもいいと思います。

目指すべきは「育児と仕事の混合」であり、1way 2jobsのようないかにまとめて両方に好影響が出せるかというズルさのほうでしょう。

1way 2jobsって、飲食業などの教育でよく言われている言葉のようで、「注文取りに行ったら、ついでに下げるお皿を処理してくる」といった、いかにまとめて効率的に業務をやっていくのかという思想のようです。

もちろん育児中ということだけにあてはまる話をしたいわけではありません。以前“当事者という美味しいポジション”というエントリーを書きましたが「プライベートだったり生活の中で当事者である経験や苦労を、どう仕事にフィードバックしてやろうかというしたたかさ」をもっと奨励するべきです。

「一挙両得」は結果論のニュアンスが強いし、失敗したわけじゃないけど「転んでもただでは起きない」というようなスタンスも含まれている。そんなしっくりくることわざを、新しく創る必要があるのかもしれませんね。



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2014/11/30

外にアンテナを立てるよりも、自分の内部に向けてチューニングする。


自由大学の新キャンパス(COMMUNE246@表参道)で行われたトークショーで話をしてきました。

テーマは「学びのセンス:アンテナはってる?」というもの。

僕が話したことは、インプットのために外にアンテナを立てることよりも、自分の内部に対してちゃんとアンテナを立てることのほうが重要だいうこと。

自分の内部に向けてチューニングしている人は、なんでも知識として蓄えている人のような全方位性はありません。その代わり、自分のテーマがある分野に関しての情報を知っているだけではなく、自分で実践して積み重ねているから経験として語れます。

多くを知っていることが重要なことではありません。それはコンピューターに任せるべき仕事。どうテーマを紡いでいくのか?どう活動していくのか?こそが人間の仕事です。

だからこそ、人脈作りとか大人数での飲み会とかやっている時間があったら、定期的に一人で篭って自分の内部にチューニングするべきです。

孤独な姿を想像できない人を薄っぺらく感じるのは、そのためでしょう。一人になって自分と向き合う。自分のテーマのものに関わっていく。自分のテーマ外のことが、周りにどう思われようが切り捨てていく。付き合いでやることを減らして、自分のリソース配分を明確にする。

理想の人生を送ったとされる人物は、たいてい、取捨選択した後の偏った興味・取り組みの集合体です。外へのアンテナとか、他人との比較…とかで焦っているのは、きっと、自分へのチューニングができていないからですよ。

関連エントリー:情報収集って切りがないから、制限しといたほうがいい。

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2014/11/18

長生きすることへのリスク対策は、生涯学ぶように働き続けられること。


高倉健さんの訃報を聞いて思ったのが、“現役のまま亡くなる”というのが、最も幸せなことだという価値観の時代がやってきている、ということです。

日本の社会保障費のことを考えても、人生戦略を考えても、一番大きなリスクは長生きすることです。もはや終身雇用の時代じゃあるまいし、定年退職したら公的年金と貯蓄でやりくるするんだというテンプレートは成立しなくなっています。

このことが浸透してくると、多くの人の働き方も人生設計も変わってきて面白くなるだろうなぁ、と個人的に思っています。

つまり、長生きすることのリスクへの対応策は、死ぬまで働くこと。生涯働き続けられること、となるでしょう。

−−−
生涯働くことを選択するというと、ネガティブなイメージを持つ人が多いかもしれません。でも、逆じゃないかなぁ。

生涯働くためには、飽きずに続けられる向学心がある分野じゃないと続けられない。ある種、学ぶように働く分野設定をしていく必要があるんだと思う。

前回も「飽きたから、新しいことを始めます」を肯定する。というエントリーを書いたように、学習曲線を駆け上がる愉しさはエンタテイメントになりえます。

一生働ける仕事を見つけられるということは、それ自体が楽しみになるはずです。もちろん、同じ仕事である必要性はありません。楽しみであり向学心として次から次と分野を変えて学び働くことも生涯働くための選択肢です。

生涯学習となりうる働き方をする。これが次のスタンダートにならざるを得ないのだと思います。まったくもってウエルカムです。

どうせリタイアして暇を持て余して何をすればわからないよりも、自分が興味あることを仕事(誰かの役に立っている状態)で続けられることほど、幸せなことはないでしょう。

生涯現役で亡くなった方の訃報に、多くの人が敬意とあこがれを持つのには、上記のような背景があるのかも。


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2014/11/07

「飽きたから、新しいことを始めます」を肯定する。


「飽きてきたので、新しいこと始めます」というと、否定的に捉えられることが多いですよね。もちろん、何年も“○○一筋”で修練し続けることを否定しているわけではないです。

“○○一筋○十年”ということに価値を置いている人が多いから、深くはないけれど広くいろいろな領域の知識・経験があることの価値を否定してほしくないと思っています。


学習曲線のどこにいるのかの問題

何か新しいことを始めた時って、どんどん知識を吸収でき、できなかったことができるようになったり…とすごく楽しい時間がやってきます。

一方で、ある程度できるようになってくると、もう一段上に成長するのが難しくなる時がやってきます。ここからは相当の時間や鍛錬が求められます。それまでの楽しい時間から、やってもやってもなかなか上達しない倦怠感の時です。

学習曲線が上がっているときには万能感、学習曲線がサチったときには倦怠感、というのはすごく当たり前の状態です。

以前、羽生善治さんの表現で以下のようなものを読んだことを覚えていて、素晴らしい比喩だなぁと感心したことがありました。
“ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走りぬけた先では大渋滞が起きています。”via.http://www.pixy10.org/archives/585508.html
子供から大人になるというのも、同じことなんだと思います。赤ちゃんは意識していなくても、ものすごい勢いで日々学習曲線を駆け上がります。一方で大人になると、自分で新しい分野を設定しない限り、日常分野で学習曲線を駆け上がるような恍惚感を味わうことなんかできるわけありません。

倦怠感を感じているなら、新しい分野を設定する

ものすごく単純な話ですが、今自分がやっていることに倦怠感がある人は、他の新しい領域のことをはじめればいいと思います。自分の問題ではなく、学習曲線の問題だから。

新しい分野での学習曲線を駆け上がる愉しさを味わいながら、いままでやってきた分野のこそこそコツコツ感を楽しめばいい。

既存事業が安定したら、新領域に。事業も一緒。

事業においても、既存事業が安定期に入ったら、次代の柱になってくれる事業を育てるように新規事業を準備しはじめます。プロダクト・ライフサイクルにあるように「導入期→成長期→安定期→成熟期」と事業もいつかはサチり衰退していくものだから。

事業の例で考えれば、学習曲線がサチって来て倦怠感があるので、次の新しい分野に手をつけ始めるのは、非難されることではなく、むしろ求められることです。

まとめ
と考えると…
・飽きたら新しいことに挑戦してみる
・一つじゃなく幅広く首を突っ込む

その結果…
・複数のタグを持っている人
・何が専門なのかよくわからない人
になるのは、学習曲線の位置によって感じる感情を使って、自然に学習していった結果となります。

人間の本能や感情が生存のために最適化してきたと考えるなら、これも感情に従った自然な生存戦略なのかもしれません。


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2014/10/30

経済合理性のある選択肢に流されないように、企業でさえも"自分の軸"を掲げている



■経済合理性で動く社会

社会のルールが「経済的価値を高めること」で動いているので、経済合理性のあることはどんどん進んでいきます。

例えば、投資した分のリターンが見えやすいものや、今使っているものより安くなるもの…同じ値段でも永く使えるとか…。

太陽光発電が固定価格買取制度によって、あっという間に広がっていったのも、白熱電球がLEDに入れ替わっていったのも、経済合理性があるからです。


一方で、経済合理性に反することを第一義としていることは、強い意志やそれなりの説得コストをかけないと広まっていきません。

そのために"エシカル・マーケティング"や"ソーシャル・グッド"と呼ばれるような「経済活動を行うことで、社会貢献活動につながるような仕掛け」をすることで、経済合理性だけでは選ばれない選択肢を提供することが行われています。

Table for twoのようなレストランで対象となっているメニューを選択することで20円分が開発途上国の給食として寄付されるという仕組みだったり、フェアトレードと言われる生産者の利益を守って適正な価格で継続的に購入した商品を購入するのも、安い選択肢ではないものを選ばせる仕組みです。

■経済合理性を牽制する“宗教/道徳と文化の役割”

さて、何を言いたいかというと。。。
上に書いたように経済合理性ではない選択肢を取らせようとすると、やはりややこしい。「お得だから買う」とか「値段の割にうまいから買う」という単純さの強さを再認識してしまう。

ボーっとしていると、経済合理性に流されてしまう。

そのために社会システムに組み込まれているものが、宗教(日本だと道徳や自然への畏怖だったり)や文化(粋や芸術、パトロンやタニマチによって支えられる経済合理性とは別の価値観)だったりするわけです。

コンプライアンスにあたるような、「人を欺く商品を売らない」ということも道徳的なものですし、「同じ道具でも、より素敵なモノ、身につけてみたいものを選ぶ」というのも文化的な力が担っているものです。

■自分の軸が必要と言われるのは、流されないため

こうやって整理していくと、“自分の軸”とか“ブレない自分軸”を持つことを欲している人がなんとなく目に付く理由がわかってきました。

経済合理性だけで物事を決めていったり、人生の選択をしなくて済むような「原理原則」が欲しいからなんですね。それは何かを購入する場面というよりも、もっと大きな人生の選択で決断するときに必要にかられるものです。

経済合理性のある選択をした場合には、みんなが「いい選択だね」と讃えてくれるだろうし、違うものを選んだ時には「なんで○○を選ばなかったの?もったいない」と言われることの気持ち悪さであり、そこに反論できないことの悔しさが残ります。

"自分の軸"を明文化できる人は、こういった場面でも経済合理性ではない選択肢を選んだことを、他人に説明できるようになります。

個人ではなく、企業であれば、"自分の軸"という部分が企業理念であり、ヴィジョンにあたる部分になるわけです。つまり、経済合理性のある選択肢だけを取らないようにするために、企業でさえも"自分の軸"を掲げているのです。

実は、経済的合理性の選択肢だけで、物事の判断をしないことを多くの人も企業も(内心では)求めているということかもしれませんね。





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2014/10/20

人生を愉しむ秘訣は、結局「絡む力・絡まれる力」なんじゃないの?


コミュニケーション力が重要なスキルとしてとり上がられるようになって、ずいぶん経ちます。

コミュニケーション能力の面白いところは、勉強ができるようなアカデミックスマート側の人間よりも、ストリートスマートと言われるようなたたき上げの人間のほうが、得意なスキルだということ。

もちろん、プレゼンテーションスキルや説明能力という意味では、学校教育で修得することが役に立つ分野ですが、面白いのが“愛嬌”だったり“可愛がられる能力”などは、学校教育というよりも商売人の家で育ったり、大人の中で小さい頃から注目を集める必要がある環境(世間的にはあまり羨ましがられない環境)の人のほうが高くなるということです。

愛嬌とか言ってしまうと、再現性が不可能な天性のもののように取られてしまいますが、そうではありません。“絡む力・絡まれる力”と言い換えたほうが、スキルとして認識してもらいやすいかもしれません。


学校教育の世界では「突っ込まれずに、全員の承認を得ること」が重視されるのに対して、コミュニケーションが産まれるためには、「他人との接触面を増やすための違和感」が必要になります。これが、学校教育で教わるような突っ込まれず、無難にこなす方向とは逆の「絡まれる力」です。

また、見ず知らずの人と接触をはかるための「絡み力」も同じです。見ず知らずの人に話しかけるには、隙を見つけて、気持よく心を開いてもらうための きっかけづくりが必要です。その人が本当は誰かに話したいポイントを見出すことから始まります。

◼︎
この「絡む力・絡まれ力」は仕事だけで役立つものではありません。むしろ、人生を愉しむためには仕事のスキルよりも、この絡む力・絡まれる力のほうが効いてきます。

例えば、同じ場所に旅行しても、人によって体験すること見られるものには差が出ます。その差がどこから生まれるのかというと、結局この「絡む力・絡まれる力」です

普通に知らない商店街を歩いていて、店主に絡んでもらったおかげで、知らない知識が得られる。地元の人がよく利用する穴場の美味しいお店を教えてもらえる。 飛行機の隣の席になった人と話したことで、永く交流が続く友達ができたり。。。

結局、人生の愉しみって「人との交流」が醍醐味だったりするわけですから。

もちろん、「絡まれる力」によって、危ない人や事件に巻き込まれたら問題ですが、そういう時こそ「絡む力」の目利き力を活かして早めに距離を取るようにしましょうねw


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2014/10/08

"痛い目にあわないと、わからない"あらため"愉しい経験しないと、かわらない"


「痛い目にあわないと、わからない」 の意味は、失敗することで人間は一番学習するということでしょう。

不安やリスクを避けるための情報はたくさんある

注意するという意味では、マニュアルや ルールブックのようなものも「痛い目にあわないと、わからない」ものに対して「痛い目にあわないように、対応策まとめておいたよ。守ってね」というコミュニケーションをしているもの。いわば、人生におけるディフェンスです。

マニュアル型のルールが成立するものは、"痛い目にあう不安への代償"としてルールを守ることを求めるものです。

よくネットで、不安系のワードで検索されるのが、この類です。そのため、こちらの情報は「失敗しない」ノウハウとしてたくさん流通しています。日々のお茶飲み話でも、結局アドバイスしたがりの人がしてくるのは、この手の「失敗しないため」「安全でいるため」の規範です。


愉しく暮らすための情報は経験しないと探せない

一方で、オフェンス側である"愉しく生きる"だったり、自分にとって"愉しく暮らす"ということを考える 情報を 探すのは容易ではありません。

難しいのは情報がないということではなく、"自分が求めているものは何か?"ということを言語化しなければならないから。

自分の周囲に"愉しく暮らしている大人"や"こういう生活をしたい"という憧れを抱かせる人がいないと、なかなか明確には描けないものです。

先日も、自分たちの環境で、肩の力を抜いて暮らしを素敵に楽しんでいる大人たちを紹介するツアーを行いました。なぜわざわざそんなツアーをするのかというと、自分の目で見て、その人達の空気感、話し方、家族や友人たちとのコミュニケーション…を体験してもらわないと、こういう世界もあるということを理解してもらえないから。腹落ちしないと、自分の生活・環境に置きかえて、自分ならどうするのかを考えないから。

今、一番足りないのは"夢のある対案"を見せる・体験してもらう仕掛けでしょう。

ことわざにはその社会が 古くから大切にしている思想が染み付いています。"痛い目にあわないと、わからない"と言い続けてきた社会に、"愉しい経験しないと、かわらない"という新しいことわざが定着したらどうなるのでしょう?

私は、自分たちの環境(制約条件)を利用して、 愉しく暮らせる大人こそ、クリエイティブな人間だと考えています。

関連エントリー:「ないものねだり」から「あるもの活かし」へ


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2014/10/03

iPhone6 Plusと3週間過ごして。アップルのライフスタイル提案が見えてきたw

iPhone6 Plusを使い始めて、今日で3週間。あまりの大きさに、正直戸惑いが隠せなかったのですが、だんだんとiPhone6 Plusとの距離感がつかめてきました。

■iPhoneが出るたびに良く言われることその1
「最初は違和感あっても慣れるんだよね…」

iPhoneが新しくなるたびに、最初は違和感があっても使っていると、慣れてしまうということを繰り返してきました。新しいものに慣れてしまうと、昔のサイズには戻れない。それが、道具としてのiPhoneの優れたところでした。

しかし、今回iPhone5sからiPhone6 Plusに 変更してみて、しばらくたってiPhone5sに触ってみると「こんなにコンパクトなiPhoneがあるんだ!」という逆の驚きが感じられてしまいます。

きっとこの一見使いづらい大きなサイズである理由があるはずです。(その2に続く)

■iPhoneが出るたびに良く言われることその2
「スペックじゃなくて、ライフスタイルの提案だから」

iPhone6のテレビCMのクリエイティブが、ライフスタイルの提案じゃなかったことからも、ついにスペック競争に陥ったのではないか…と言われています。

しかし、今回のiPhone6 Plusは僕にとって、いままで一番のライフスタイルの提言があったモデルでした。iPhoneをずっと使ってきて、知らず知らずのうちに陥っていた課題を一気に解決してくれたモデルでした。


iPhone6 Plusのアップルからの提案
「目の前にいる人との時間や現実社会をもっと楽しめ」

ポケットに入れられて、どんなときにでもチェックできる。目の前に誰かがいるのに、ついノーティフィケーションが気になってスクリーンを覗いてしまう。。。

iPhoneによって生み出された新しいライフスタイルだったわけですが、いつのまにか現実社会よりもスクリーンの向こう側に偏っていたのかもしれません。

iPhone6 Plusがすごいのは、大きいため、ポケットに入れていたら曲がってしまうかもしれないのでカバンに入れることになるというアフォーダンス。

そうするとノーティフィケーションが飛んできても、なかなか気が付きません。その分、目の前にいる人との話にも集中でき、移動中の風景や見ていなかったものに気がつくことができます。

リアルの社会とのバランスを再び取れという提案なのでしょう。

ついついスマートフォンを触ってしまう人こそ、使うときは落ち着いてじっくり使え、ちょっとの空き時間とかであれば、カバンから出すのがめんどくさい。そして、ちょこちょこメッセージのやりとりをやるのも、大きくてバランスを崩しやすいiPhone6 Plusのほうを選んだほうがいいですよ!






初期にiPhone6 Plusを(実物も見ずに)購入した人はiPhoneが出たらすぐに購入するイノベーター層でしょうから、アップルが一番伝えたかった人に、iPhoneとの距離感を考えさせることに成功したとも言えますよね。

追伸:iPhone6 Plusのこと、本当に褒めてますよw(念のため)

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2014/09/26

コンパクトシティ化のキモは、効率じゃなく混沌化。



前回のエントリーで、「日本はモノカルチャーで構成された空間が圧倒的に多い」という投稿をしたところ、いろいろな反応をいただきました。

もうちょっと考えてみると、 ビジネスマンはビジネスマン、子供は子供、高齢者は高齢者…と分けて空間設計・都市の機能設計になっているのは、日本の社会システムが"効率化"を目指すことがコンセプトになっているからだと言えます。

−−−
現在人口減少局面において、"コンパクトシティ"というコンセプトが提唱されています。

例えば、国土交通省の「集約都市(コンパクトシティ)形成支援事業」に関しては以下のように書かれています。


都市機能の近接化による歩いて暮らせる集約型まちづくりの実現に向け、拡散した都市機能を集約させ、生活圏の再構築を進めていくため、医療施設、社会福祉施設、教育文化施設等の都市のコアとなる施設の集約地域への移転や、移転跡地の都市的土地利用からの転換を促進する支援制度 (引用先:http://www.mlit.go.jp/toshi/toshi_machi_tk_000054.html


また、セットで語られているのが「低炭素まちづくり」や「グリーンシティ」と言われるものです。コンパクトシティ化することで、歩くことの促進、公共交通機関利用などメリットを謳うのは大賛成です。

とはいえ、コンパクトシティという次の社会システムのビジョンが、またもや「効率化」という側面だけで語られています。それは、本当に我々が住み働きたい都市なのでしょうか?

社会が効率化を求めて、同じカテゴリーの人ばかりだけと時間を過ごす社会設計から、都市がコンパクト化することで、大人も子供も高齢者も、アーティストもビジネスマンも混ざって混沌とする中から、新しいものが生まれるのが、本当のメリットです。

新しいシステムを導入するときに、既存の人たちに導入してもらいやすくするために「効率化」というわかりやすい切り口で進める戦術なら、もちろん賛成です。

しかしながら、コンパクトシティ化して起きたことが、またもやすべて「効率化を目指して、各属性の人達が固まって過ごす都市」になってしまうことを危惧しています。

コンパクト化することで、混じって混沌とする中から、新しいサービスや新しい産業が生まれる方が、古くて新しい次の社会のあり方だと思うから。



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2014/09/19

日本はモノカルチャーで構成された空間が圧倒的に多い



自由大学クリエイティブ創業スクールの「女性起業コース」で、とある実験を始めたことをきっかけに、気になることがでてきました。

とある実験とは、子連れOK/連れてくる人も来ない人も含めて、お互いで学ぶ環境を改善しながら、講義を実施していくという環境です。いまのところ、託児施設はありませんので、子供たちが遊ぶ中でどこまで学べるのか?どこまで集中できるのかが受講する側も、教える側にも問われています。


最初に触れた「気になること」とは、「日本はモノカルチャーで構成された空間が圧倒的に多い」です。例えば「子供が存在しない不自然な空間」(少子化なのでしょうがない?)や「高齢者の存在しない不自然な空間」(あれ?高齢化社会ですよね?)などです。

ビジネスシーンでは朝や夜の通勤時間にしても、オフィスにしても、社会人の行くようなスクール、夜の飲み会の場。すべてにおいて「自分と同じようなビジネスマンとばかり接する偏った空間」になっています。

これじゃあ、自分と違う環境の人の気持ちも、行動原理も、不満もビジネスチャンスも、見逃してしまいます。同じような属性で固まって過ごすことが多くなるために、自分と異なる行動をする人に対して、相手に「うるさい」とか「迷惑だ」と決めつけてしまうのでしょう。。。

−−−
上記の女性起業コースの混沌とした教室の実験をやっていると、いかに我々が"当たり前"と思っていることが、モノカルチャーなルールの中で"当たり前"になっているかを思い知らせれます。

教室=学生が集まる場/静かに講師の話を聞くことが当たり前/前をむいて講師の話を聞くもので、横でぺちゃくちゃ話すことを控えるのは当たり前/子供が遊んでいるので、床に一緒に座り、子供をあやしながら聞くながら聴講なんてNG…などなど。

世の中には既存の仕組みを利用できるようにするために、"当たり前"を手放して、環境を再構築しなくちゃいけない分野、お互い歩み寄らなくちゃいけない分野がまだまだあるんだと学習中です。

こういう実体験の学び、やっぱり好きだなぁ。



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2014/09/10

「みんな」とか「原理主義」に陥らないための「ロジカル」という道具。


先日掲載されていたほぼ日“今日のダーリン”で書かれていた内容がずっとずっと頭から離れずにいます。ここから考えなくちゃいけない大事なことがまだまだあるように思えて。

a)みんな(大勢)がやっていると思っていたけど、
たった一握りの人しかやってないこと。

b)わたし(少数)だけがやっているつもりだったのに、
みんながやっていたこと。

c)みんな(大勢)がやっているのだろうと思ってたけど、
実際に、みんながやっていたこと。

d)わたし(少数)だけがやっているのだと思ってたけど、
やっぱり、ほんとにわたしだけがやっていること。

いろんなこと、だいたい上記の4つに分類できそうです。
「やっている」と記したところには、
「知っている」とか「思っている」と入れてもいいです。

c)とd)の場合については、当たっているので、
あんまり問題はないわけです。
b)とかa)についての思いちがいは、よくあることですが、
いろんな思考や行動を間違わせます。

ここで、親切に、いろんな例をあげて、
「ほらね」とか言うほうがいいのかもしれませんが、
めんどくさいので、そのまま書きっぱなしにします。
あのこと、このこと、ごじぶんなりに、
いろんなことを想像しては代入してみてください。

あなたの背後に、あなたの考えに
ものすごく同感する人がいると思っていても、
ぜんぜんいないという場合もよくあるでしょう。
あなたが、選ばれた人であるがゆえに、
ずいぶんいろいろ大事なことを知っていると思ってても、
そのくらいみんな知ってるよ、ということもありそう。

少数であることを気どらない。
多数であると思って調子にのらない。
考えるべき重要なことは、多さや少なさじゃない。


“b)わたし(少数)だけがやっているつもりだったのに、
みんながやっていたこと。”
の時には、優越感の思いちがいがうまれ、


“a)みんな(大勢)がやっていると思っていたけど、
たった一握りの人しかやってないこと。”
の時には、「常識でしょ?感」という思いちがいが生じてしまいます。



僕が怖いなぁと思っているのがa)の場合。相手に対する攻撃的な言動の多くは、この思いちがいから生まれています。

新興宗教でも思想でも、主義主張でも、この思いちがいによって、自分たちが正しいと思い相手をむりやり変更させようという非ロジカルな攻撃がはじまります。

声が大きい、腕力が強いからとか、一致団結して攻撃していくるから…ということで。こちらは、ちゃんとその主張の理由が知りたいのです。

以前は言論空間に登場することがなかった、感情論で叫ぶ人達が、文字を使ってロジカルな人と意見を戦わせようとしていることが目につくようになったことが原因ですが。。。

「みんなが…」という理由ではなく、ロジカルに「そうしたほうがいい理由」をテーブルの上に並べて議論できるフラットさを僕はつねに支持したい。

自分自身も、多数派だから、少数派だからという思いちがいをしないように・・・、思いちがいをベースに声高に語らないように・・・。

−−−

新入社員の頃、まったくロジカルな説明ができなかった自分が、一生懸命訓練したのも、このフラットに議論できることに憧れたからです。

自分が考えていることを相手に説明し、相手の主張していることの理由も理解して意思疎通をはかる。思っていることを抽象化し、ケース化して言語として可視化する。

人間が長い年月をかけて育ててきた、この力を社会でもっと活用してほしい。

大きな流れで言うと、ロジカルなものが優先される風潮が飽きられ、感覚的なものを崇拝してきたのがここ5〜6年ぐらいで起きたことでした。そろそろ、それが行き過ぎた頃かも。またロジカルのバランスも見直される時期なのかもしれません。


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2014/09/04

何を「貫いて」どの部分は柔軟に「変化・対応させる」のか?


世界に和食と寿司を拡めたレストランNOBUのオーナーシェフ、松久信幸さんの本を読みました。(会社員時代の同期・高橋亜起子さんから献本してもらって。彼女は現在NOBUの世界中の店舗に食器やお酒などを販売する事業をやっています)

一人の人間の波乱場上の物語としても楽しめますが、ブランドを作っていくことに興味がある人や、オーナーシェフという自分の分身であるお店を事業化していく中での変化を疑似体験できるという意味で、興味深い本でした。

「貫く」部分と「柔軟に変化させる」部分
ここの基準がしっかりとNOBUさんの中にあり、一店舗のときでも、世界中にレストラン・ホテルを展開するようにしても徹底しているということです。

シェフでここまでのバランスを持っているということが、面白い。いい原材料を使うことにこだわり、和食の良さを伝えるための方法は譲らない。一方で、現地の人に生魚に親しんでもらうために従来の日本料理にはないメニューを開発したり、店舗規模にあわせて柔軟に組織化する部分やレストランからホテルにチャレンジしてみるという変化も受け入れてしまう。

「お客さん=NOBUに求められていること」を理解し、その根幹の部分は大切にし、絶対に守る。一方で、変化が必要なものや、より時代や環境に合わせる必要があるものは柔軟に。

−−−
何を「貫いて」どの部分は「変化・対応」させるのか?

これはどんな組織であっても、個人であっても重要な問いです。個人だからと言って、なんでもかんでも迎合していたら、何も残らないし、つまらない。

限られた自分の時間を、何に使うのか? その「何」の優先順位を決めるためにも、この「貫くものは何なのか?」に対する答えが必要になります。

一方で、歳を重ねるにつれて、こだわらなくてもいいような部分なのに、無駄に頑固になっていないのかも考えなければ。

そんなことを考えさせられた本でした。



お客さんの笑顔が、僕のすべて!
松久信幸(ダイヤモンド社)

まえがき――ただ、お客さんの笑顔がみたいだけ

第一章 「海外」と「寿司」への憧れ
――下積み時代を耐えられたからこそ
「おやじみたいに海外に行きたい」
祖母譲りの負けず嫌い
無免許運転で大事故。高校中退
皿洗い、出前持ちばかりの三年間
巨人・王選手のための盛り合わせ
下積み時代を耐えられたからこそ今がある
「立派なお店」より「いい人のお店」
背伸びすれば背が伸びる
おいしいものを求める旅で、妻となる女性に出会う
親父さんの目を盗んで新しい料理に挑戦
「料理は心、ハートで仕事をする」の原点
「ペルーで寿司屋をやらないか?」

第二章 落ちるところまで落ちれば、焦りは消える
――海外での連戦連敗
「ペルー リマ 松栄鮨」開店
ペルーでアナゴを安く仕入れる裏技
「安い食材を使え」というパートナーと喧嘩別れ
やりたい仕事ができないフラストレーション
帰国し、赤貧暮らし
絶望の淵から「一日一ミリでも前へ!」
再起を誓い、単身ロサンゼルスへ
再び家族をひとつにした妻の勇気
南米で覚えた調理法を寿司に融合
店の転売計画が発覚。再び職を失う不安
背中を押してくれた恩人の申し出

第三章 お客さんの笑い声が満ちた場所に
――はじめての自分の店「マツヒサ」オープン
自分の好きな仕事ができることが、ただただうれしい
睡眠時間は一〜二時間。毎日が戦い
お客さんに、何でもやってあげられる!
「魚のおいしさを知ってほしい」という情熱から新しい料理が生まれる
料理はファッション、常に進化していく
熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに
寿司屋の「おまかせ」がNOBUスタイルの原点
お客さんの笑い声が最高のバックグラウンドミュージック
「もし自分が相手だったら・・・・・・」がサービスの基本
衝動買いしたマグロのおかげで看板メニューが生まれた
生魚を日本から輸入する
やる気のある職人が雇えれば、人件費なんて安いもの
良い食材が先、利益は後
アメリカで、褒めて育てる大切さを知った
メディアに取り上げられ、セレブが来店

第四章 四年待ってくれたデ・ニーロ
――NOBUの共同経営をスタート
デ・ニーロとの出会い
「三顧の礼」で信頼が生まれる
機が熟したときには不安を感じない
レストラン経営のプロが、キッチンを組織化
下手な英語でも伝えようとする情熱があれば・・・・・・
ストレスを感じながらではいい仕事はできない
日本料理店のイメージを変えた
ニューヨークからロサンゼルスへSOSの電話
ミシュランの星よりもお客さんの笑顔
それでも「原点」のマツヒサを忘れない
映画の世界も知ることができた
一つのことを続けていると、世界が広がる

第五章 NOBUの味とサービスを世界へ
――その土地に合わせることと、変えないこと
デ・ニーロなしのNOBUはありえない
ロンドンでNOBUの二店めをオープン、クリスマスに営業
世界のアルマーニと直談判、禁煙を貫く
NOBUの経験者が直接教えて伝える
新しい「味」を創る
NOBUスタイルの土台には「和食」がある
年間10ヶ月、世界中のNOBUを回る理由
現地のシェフと日本人シェフを組ませる理由
僕の目指す最高を、スタッフにも目指してもらう
「売れているんだからいいじゃないか」では大きな損につながる
新メニューを禁止するのではなく、もっといい料理を考える
本質を忘れるな、料理はシンプルがいちばん

第六章 パートナーシップ崩壊の危機を乗り越えて
――常にクオリティを高めつづける
パリ撤退の苦い経験
機が熟するのを待ってパリで再挑戦
「ノブはかけひきをしない」
「1+1」が「100」になるような関係に
NOBUの経営チームも成長した
大きな理想をもつパートナーと仕事をするのは楽しい
「NOBUができるとその街が変わる」
本当の競争をしていれば、競合とも共存共栄できる
中核メンバーの三人が育たなければ新規店舗は出せない
同じことを言いつづけるのが大事
僕がお客さんとの写真撮影を拒まない理由
「おもてなし」にマニュアルは要らない
叱るときも相手の立場に立って言葉を選ぶ
叱ることより効果的なのは、手本を見せること
ハングリー精神は教えられるものではないけれど
皿洗いの人に必ず「ありがとう」と言う

第七章 新たなステージへの挑戦
――NOBUホテルオープン
レストランからホテルへ
NOBUコンセプトをホテルのサービスに反映させる
緑茶とおせんべいでウェルカム
二四時間、部屋でNOBUの料理が食べられる
あるマネージャの勇気ある決断
若い子たちがぐんぐん伸びているのを実感できる店が居心地いい
新しい挑戦に批判はつきもの
日本人以外の人に「正面」の概念を伝えるオリジナル食器
クルーズのお客さんから届いた感謝の手紙
ライバル意識より学び合い意識が組織を強くする
スタッフの成功が、僕の成功。チャンスをつかんでほしい
チームプレーができるシェフがいることがNOBUの強み
「もしかしたら、僕は成し遂げたのかもしれない」

第八章 情熱と努力があれば、結果は後からついてくる
さらに、次の夢を目指して
マニュアルよりもコミュニケーションを第一に
弟子を自分と同じレベルに育ててこそ職人として一人前
レシピはコピーできても、ハートはコピーできない
残りの人生で僕がすべきこと
命の恩人の苦しみに気づいてやれなかった未熟さ
一生懸命がいちばん楽
こわがりだからがんばれる
グローバル人材になれるかなんて考えてもしょうがない
いっぱい助けられたその恩を、次世代に返したい
結局「情熱」という一言に集約できる
「もし自分が相手だったら」が世界に広がれば・・・・・・

あとがき



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