グローバル サイトタグ(gtag.js)

2014/07/10

自己責任派と、自由と責任を放棄しておきながら文句だけ言っている人達。


台風が来るたびに、自分のスケジュールを自分でコントロールする「自由と責任」について考えてしまいます。

以前、台風が来ることが確実にわかっているのに出社して帰宅困難に陥る不思議さについてエントリーを書いたことがありました。昨夜の台風で再び認識させられた「リスクを取ったジャッジができない」日本の空気

起こってしまったことを全力で以前の形に戻すことは迅速に機能するし、素晴らしい復旧作業が行われます。 昨夜も倒れた木を撤収して、道路を通れるようにしたり、線路を元通りにして早く復旧できるために多くの人が各持ち場で素晴らしい仕事をしていたと思います。本当に頭が下がります。 

しかし、なぜか、未然に防いだりするための判断を行うことは苦手なようです。台風が直撃する日に、自宅待機という判断もあり得たと思いますし、逆に出勤したからには中途半端な時間ではなく台風が行き過ぎてから帰宅するような指示を出すという判断もあると思います。もしくは、そんなことは会社に頼らずに、自分個人の判断として、情報を集めて自己責任でジャッジすべきですよね。 

さて、本題です。 前者と後者の大きな違いは、「起こってしまったことを全力で以前の形に戻すこと」が、「元通りにすばやく戻す」ということのために、合意形成がしやすいのに対して、「未然に防ぐための判断」は「もしも起きなかったら?」などとケチが付き、合意形成が行われづらいことです。 

正直、日本のこの倦怠感というか気持ち悪さは、この「もしも?」という不確実性が高いことについて、合意形成ができない空気が蔓延していることのように思います。 

そして、合意形成ができないことを「自分の責任で」とリスクをとって判断する人が少ないことからきています。 リスクとって決めて実践するってことは、この「未然に防ぐための判断」を行うときと同じ行動です。情報を集めようと思えばいくらでも集められます。でも、最後は「えいや!」で人がジャッジを下すしかないんですよね。
自分で未来のことに関して、予防策を取ることも無視することも、自分で100%責任を負うからこそできることです。この「自由と責任」を放棄してしまっている人が多いように思います。

会社や組織に「帰宅するかどうか」の判断を委ねていながら、その判断のせいで混乱に巻き込まれると文句を言う人達。消費者意識が変に高く、自分の判断で購入したものなのに、過剰なサービスを求めクレームをつけまくっているモンスター消費者。行政にも教育にも、自分たちがなんら参加していないのに、完璧さばかりを求める人達…。すべて同じ所でつながっています。

「自由と責任」を放棄しておきながら、文句だけ言う人達を「カッコ悪い」と大声で言える社会に僕は住んでいたい。文句言っている暇があったら、自分たちで未然に防ぐ努力や改善策を出して動ける大人たち側にいたい。

関連エントリー:「生き方のスタンス」が違うと友達になれない? 自己責任派と他人依存派の埋められない溝


RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/07/04

移動は投資。仕事は研究。


以前、「移動は投資」というエントリーを書きました。
“移動によって、客観的に見ようとすればするほど主観が磨かれる”がまさにそうです。客観的に異なるものを見ていくと、自然に自分の中に「ものさし」ができていきます。これがものすごい武器になります。

複数の視点という「ものさし」を持っているからこそ、見えてくる「発見」「抜け道」「切り口」があるのです。
今の時代を生きている我々にとって、この「移動は投資」をもって手に入れられる視点は大きな武器となります。


そしてもう一つ大事なことは、「仕事を研究」と思えるかどうか。自分のやっている仕事は、自分が研究してノウハウを蓄積したり、成果を出していくものだと捉えられるかでしょう。研究開発費として、自分が時間や労力やお金というコストを払うのを、喜べるかどうかです。

会社員であろうと、フリーランスや経営者であっても、これは同じです。自分が仕事でやって積み重ねていっているものが、自分の研究成果としてプロフィールになっていきます。

よく言われることですが、以前は企業名や肩書など所属している“企業格と階級”で判断される時代でした。

しかし、今では過去やってきたことが調べればすぐにわかる時代です。

自分は何を成し遂げてきたのか? 何の専門分野で、どんな経験を積んできているのか? どんなテーマをもって取り組んできているのか?どんな転機や人との出会いが今につながっているのか?ということが価値を持ちます。

Narrative(ナラティブ)という言葉が、急上昇してきている背景には、大学教授や研究者でなくても、個々人が「仕事を研究」にすることが求められるということがあるのでしょう。

さらに、もう一つ背景にあると思っています。これは「NarrativeとStoryの違い」を説明したほうがわかりやすいでしょう。
「NARRATIVE」という単語を辞書で調べると、「物語」という意味が出てきます。「物語」という言葉から連想されるのは「STORY」であり、「NARRATIVE」ではありません。
「NARRATIVE」と「STORY」は少し意味が違います。「STORY」は始点と終点が決まっていて、話の向かう方向性も決まっています。それに対して「NARRATIVE」は始点と終点がなく、方向性もないまま「語っていく」、そのような状況です。「NARRATIVE」な語らいが良いのは、そこにある偶然性・意外性です。
その語りの中には、今まで気がつかなかったことが多く含まれています。その糸口から「なぜ?」を繰り返し、その思考や行動の背景を探っていく。普段は意識していない、自分の中で物語として成立していないものが、語らいの中で結びついていく。相手が大事にしていることやその意味、理由が見えてくる。via:http://www.nakedclue.jp/当社を支える考え方/narrative/

計画的にプロフィールを見せたり、一直線に積み上がってきたものよりも、自分のテーマを追求しているなかで、偶発性や意外性のある出来事があり、振り返ってみると、今の自分の場所ができているという話にこそ重要な部分があるのです。

多くの研究者が失敗やミスによって、偶然大きな発見と出会えるように、我々のプロフィールもNarrative性によって紆余曲折あって積み上がってきたもののほうがセクシーで人を惹きつけます。

自分を研究者と定義したら、仕事を積み重ねる中で起きてしまう失敗やミスもチャンスと思えるようになるし、ちょっと違った分野でも探求してみたいと思えるコトや人と出会うのは自然なこと。

振り返ってみると、想像していたいよりも遠くに、自分を連れて行ってくれるかもしれませんよ。


RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/06/25

「○○の多様化」は、逃げ文句では?


一度自分の気持ちにひっかかった表現があると、打ち合わせ中でも会話中でも、「また、それか!」と気になって話に集中できなくなる。

最近のマイブームは「多様化」だ。会話の中でも、「多様化してますからね〜。」とか、ニュースなどでも「ライフスタイルの多様化によって…」と聞くたびに、本当かなぁ?とつい考えてしまう。

今、“手垢のついた表現”として、乱用されている表現の最右翼が“○○の多様化”かもしれない。

この「多様化」が使われるのは多くが、要望に答えられない理由や、迅速に対応できない言い訳として「多様化」が使われている。

でも、本当に要望に答えられないほどに、要望が多様化しているのだろうか? 政治や行政が対応できないほど、社会の望む方向性が見えないのだろうか?

−− 冷静に考えてみると、ベクトルは一つじゃないだろうか?

従来型の富国強兵型の経済成長のために、いろいろなことを犠牲にしてもらガリガリやるのだということをなんとなく共有していた世界(この時代にも多くの疑問を感じていた人がいた)から、もうちょっとバランス良く人間的な生活を送りながら経済的に安定できる方法はないの?という層のボリュームが大きくなっただけだろう。

つまり生活者の要望は明確で、「みなさんが望んでいることの方向性はこっちですよね」と提示できるはずです。

しかしながら、それをやらないのは、今の日本の置かれた社会環境で、誰にでも楽してその要望を手に入れられるほど、甘くない、からなのでしょう。要望や課題を特定してしまえば、それを解決しないのは政治家や行政が責められることになってしまうから。

もはや、これは社会課題ではなく、各個人の課題だと認識すべき時なのかもしれません。


多様化しているのはニーズではなくて、要望を手に入れるための個人の実現方法のほう。個々人の持っているものを社会に提供しながらバランスの良い人間的な生活を手に入れる。それぞれの立場で、機会を活かしてバランスの良い人間的な生活を手に入れる…etc。個人が考え、動いて手に入れるものなのです。

言うなれば、行政や政治が(国家がと言ってもいいかもしれないが)一律に対応できる手法ではないということです。(税収が今後も伸び続け、人口も増加していく環境であれば別ですが)

まとめると、「○○の多様化によって、あり方を検討中」ということは、「政治が対応しかねることなので個々人で頑張ってね」というふうに読み替えるとすっきりする、ということです。

何かが欲しければ、誰かのせいにせず、自分で工夫して手に入れる時代。文句を言っているぐらいなら、自分でHackする。そしてそれが思っている以上にできる時代です。



RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/06/19

危機的状況こそが、新しい自分を創る。


月〜金の9時−17時で仕事をいかに進められるのかの切迫感が以前とは変わりました。そして夜に、つい仲間と飲んで情報交換するのは当たり前、人と会うのも飲みながら…という当たり前もかなり減りました。

時間の使い方も生活スタイルも一年前とは大違いです。

理由は、双子が生まれ保育園に無事に入れたことで、この時間に集中して仕事ができないと、朝も夜も育児は時間が読めないので危険だから。

振り返ってみると、こういう働き方ができるようになったのは極端な状況に陥ったからこそだと思います。双子という想定外のおかげで今までのやり方では、ちょっと無理かなぁと、ゼロリセットして考えることができたから。

ライフスタイルや習慣を変えさせる一番の方法は「危機的状況」です。

一番中途半端で良くないのは、120%とか130%“頑張れば”なんとかなってしまうという状況です。200%頑張らないと超えられない課題がやってくれば、自然と「その他の選択肢」を考えることに頭が動き始めます。

emergency(緊急事態)とemergence(創発・覚醒)が、同じ語源だと言われますが、緊急事態ぐらいにならないと、過去のしがらみを捨てて新しいものを産み出すことにシフトしないのかもしれません。

とはいえ、多くの周りの方々がこちらの状況を察してくれて、ご配慮いただいているからです。ありがとうございます!(と、周りが協力してくれる効果も、危機的状況だと生まれますw)

やっぱり、ピンチはチャンスですねぇ。
とはいえ、子供が寝た夜中にごそごそ仕事している分もあるので、もう一段、楽にできる方法を考えなくちゃなぁ。


RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/06/10

一番贅沢な旅は「お金では買えない旅」


あちこちに旅に出ていて(主に出張兼ねてですが)感じるのは、ガイドブックに掲載されているスポットは、誰でも訪れることができて、“商品”として均一に提供されるコト・モノだけだということ。

でも、一番贅沢で、一番興味深いのは、知人・友人を介して「あなたであれば」と紹介してもらったり、体験させてもらったりするコトです。

もちろん、これは“商品”ではないので、お金を出しても提供してもらえるものではありません。そこで聞ける話だって、こちらとの関係性や会話によって聞き出せる一期一会のもの。

そして、お金では買えない・商品にならない属人的な旅では、友人・知人の近況を確認しあうためにも同じ場所を何度も訪れるリピーターにさせる力があります。

−−−
こんなことをあらためて考えたのは、先週末に行った素敵な人に会いに行く「天童脱藩ツアー」のおかげです。

仕事から始まって友人となった天童市の方々のおかげで、天童の自然・ものづくり・祈りを知ることのできる貴重な体験でした。

Blog読者へのおすそ分けとしてハイライト部分を写真で紹介します。これがないと上で書いたことの実感が伝わらないので。

■天童木工でのリングスツール制作体験



■無農薬農家のかわはらファームでの稲の敵「ひえ」取り体験







■坂本大三郎さんによる「山伏」のお話と法螺吹き体験



■地元の素材で、美味しく・美しく作っていただいたおもてなし料理





■世界に挑戦する「さくらんぼジャパン」のさくらんぼ摘み体験




−−−
グローバル資本主義の文脈にのらないもの、平等ではないもの。一番贅沢で、思い出に残り、見えるものを変える旅は、お金では買えません。

マニュアル化、業務フローの標準化の中で、企業社会や役所では疎んじられてきた"属人"的なもののを見直すときなのかもしれません。

関連記事:仕事は「属人化」したほうが、好都合なんじゃない?

RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/06/03

年間を通してコンスタントに働くのは、当たり前?



“年間を通してコンスタントに働かないといけない、という考えをやめました。ここは自然の力が大きくて冬は出歩けないから、さからわずに休むことにしています。”via.「思い通りにいかない」が暮らしをつくる。山を暦代わりにした暮らしを実践するカフェ「麦小舍」|greenz.jp

この記事を読んで、自然のサイクルによって悪天候の時や冬など、仕事ができない環境を与えてもらえるのは、人間にとってありがたいことなのかもなぁ、と思い始めました。

自然の影響を受けずにコンスタントに働けるようになったおかげで、現代人は生産量も増え、社会的な富も増えました。しかしながら失ったものもあります。

一番の損失は、もともと冬にあった“篭って自分と向き合う時期”を失ってしまっていることでしょう。

バケーションも“篭って自分と向き合う時期”として、機能しています。語源としても、「vacant=空っぽ」なわけで、その時期があるから新しい創造が生まれる種まきができます。

生産には、外から見ると「冬」のように見える休んでいる・遊んでいることが次につながる仕込みの時期が必要です。

自分に当てはめても、楽しいお茶飲み話や、会いたい人に話を聞いている時間、移動の時間、旅に出ている時間、そこで考えたこと、この時間が自分の生産活動を作っています。

知的労働をしている人にとって、この「冬」の期間を創ることが、生産性を高めることに繋がると思っています。自分の価値を高めていくには、休む・遊ぶことでしか生まれないと言い切ってしまってもいいかもしれません。


年間の“休み”や“学び”の時間を、“働く時間の残り”で必ずしも考える必要はないはずです。むしろ逆で、“遊ぶ時間”“休む時間“を優先することで、わきあがってくる“仕事欲”を仕事にぶつけて事を成す時代なんだと思います。

はやいところ、知的労働者は「休んだもの勝ち」「遊んだもの勝ち」ということが、社会的に認識されるようになってほしい。いや、そうか。自分が「遊んだもの勝ち」を証明していけばいいのか!

関連エントリー:"仕事のために"とか言い訳してでも、愉しんだり遊んだりしたほうがいい理由。

RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/05/28

"仕事のために"とか言い訳してでも、愉しんだり遊んだりしたほうがいい理由。


日本社会でイノベーションが起きづらいことの一番の課題は、「楽しむことに罪悪感を感じる社会」をどうやって払拭するか?でしょう。

みんなで同じ苦痛を味わうことが一体感を得るために尊重されたり、“自分が楽するため”という理由で工夫することが是とはしてもらえない雰囲気は、生産を上げたり新しいことを行う大きな壁になっている。

楽すること、遊ぶことへの罪悪感を取り払わない限り、いつまでたっても物事を前に進めようとする人たちが潰され、楽しみ方を開発する人たちが、後ろ指さされてしまう。。。

いっそ「仕事のために楽する、遊ぶ」という言い訳を準備してあげる方法がないかなぁと考えていました。

遊ぶことに罪悪感があったり、ストレス解消するためにモノを買ったり浪費しているぐらいだったら、投資として体験を買ったり先行投資として遊ぶことを“仕事のため”と“眉間にシワを寄せて”やればいい。この説得方法があるかも、と思ったのが以下の文章です。
経験的にモノにお金を払うかたはお金が増えない。体験にお金を払うかたは投資家という「生き方」をしているなあとおもう。 
なぜ体験という投資に惜しみなく金をかけられるかというと、答えは簡単。体験は流用できる。アイディアだけでお金はあとでいくらでも取り返せる。
投資的生き方においては、体験は客観的でないほうが尚いいとおもう。主観で問題の設定をしていく。
みんなが肯定しないものが投資。とおもうようにする。逆にみんなが愉しむものに参加することを消費するといいます。via:投資は生き方と思います。−所長サンの哲学的投資生活 

結局、新しいものを産み出すためには、人とは違った目を持つことが求められます。遊びがうまい人は、世の中にある“面白い”要素を発見して、活用できる人です。(その力を養うために、大人は遊ぶのですw)

みんながすでに面白いと思っているものは、市場に認知されているのでうまみはありません。みんなが見向きもしないもの、なんだかわからないものを掘り起こす・サービス化するから儲けにつながるのです。

大人こそ、“仕事のために”もっと愉しみ、遊びましょう!



関連記事:
・僕が、わざわざ現地視察することで得られる3つのメリット。
・「移動は投資」

追記:自分自身が遊ぶことからはじめたものに「手書き地図推進委員会」があることを思い出しました。現地の人の濃い目線で、その土地を楽しみたいという気持ちから始まった活動ですが、だんだんビジネスとしても育ってきています。こういうのが大人の遊び方だと思うんですよねぇ。


RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/05/23

何の変哲もない「紙袋」が、かっこ良く思えるようになった背景。


文脈が変わったため、今まで見向きもされないものが、急にかっこよく感じられることがある。

ふと、感じたのが、上の写真のような「紙袋」。ビニール袋ではなく、ブラウンのお金のかかっていなさそうな紙袋。もしかして一番オシャレなバックなのかも。

ちょっと調べてみたら、やはりこの何の変哲もない紙袋風のバックがすでに商品化されています。

問題は、なぜこの何の変哲もない「紙袋」が急にかっこよく見えるようになったのか?

この「紙袋」の背景にあるのは…

・チェーン店ではない地元のお店で買物をしているということの意味性が変わった

・ノームコアというワードが登場したように「外見を着飾ることで差別化するよりも、自分の思想や行動のほうが重要」と変化した

この話を「ファッションの話ね」と思っている人も多いかもしれないが、人の気分の変化はもっと広範囲に影響します。

先日書いたエントリー「協業するときも、広告するときも、企業は“できること”よりも“哲学・思想“が問われている。」とも背景はつながっている。そう企業のコミュニケーションの仕方も変わるのです。

また、地元のお店で買い物する、歩いていける自転車で行ける範囲で買い物をするという行動の変化は、都市設計にも影響します。

中身が問われる時に、外見は普通で力が入っていないなものであるほうが、逆に本物感が強くなる。菅付さんの「中身化する社会」にあるようなトレンドを無視できなくなります。

かっこよく感じるものが変化するときには、大きなトレンドの変化や未来へのヒントが隠されています。




RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/05/21

協業するときも、広告するときも、企業は“できること”よりも“哲学・思想“が問われている。


企業でも個人でも、一緒に何かに取り組むときに、思想や価値観がマッチすることが、ますます重要になっています。

例えば、
・労働人口が減少するから→生産性を上げなくちゃ・より人生を楽しむために→生産性を上げなくちゃ
は、やることは一緒であっても、背景や思想はまったく異なります。仮に上記2つの考えに至った会社が、生産性向上を協力して行ったら、どうでしょう?

価値観が異なるのだから、同じ「生産性を上げる」という目的でも、取り組む内容も異なってきます。前者は、他国との比較や日本全体の生産性を重視するため、労働時間を増やし、働く人に無理強いしても生産性を上げることを目指すかもしれません。後者では、労働時間を減らしても、より生産性が上がる方法を模索するでしょう。

次第に思想の違いから、ぶつかりあり、ほどなく協力関係は解消するでしょう。

一方で、
・より人生を楽しむために→生産性を上げなくちゃ・より人生を楽しむために→一人あたりの生産性を下げ、ワークシェアリングくを導入しよう
は、どちらも目指している世界観・価値観が同じために、実施しようという方法に違いはあっても、協力しながら生活を圧迫せずアウトプットが出せる働き方を模索していくでしょう。

−−−
と書くと、今では「そりゃそうだ。」と思うでしょうが、従来ビジネスの現場では、背景や思想はどうでもよく、目の前のやることを効率的にやるための協業が当たり前でした。

「思想や企業の哲学なんかどうでもいいから、おたくは何ができるの?」という世界です。

従来は、価値観の対立がほぼなかったのかもしれません。効率的に仕事をする/企業を拡大することを目指し、利益を高める以外の価値観が、ビジネス世界ではほぼ存在しなかったから。


こんな時代がやってきていることを、全共闘世代の人たちはどう感じるのでしょう。

こんなに思想や価値観を企業も問われる時代になるとは? 広告のメッセージが、自社の思想や価値観が中心になるとは?
「売りたい」つまり「成長したい」ということと、「世の中をよくしたい」ということが、密接に連関していることが、はっきりしてきたということですね。そのふたつのことを同時に満たすのが、企業活動であり、ブランディングであるということです。
企業のそもそもの存在価値、哲学に世界的共感がないと、せいぜい一瞬の繁栄で終わってしまう。カスタマー(顧客、消費者)や、世界との「ロングタイム・リレーションシップ(長い関係性)」が構築できないのです。一見遠回りのようですが、社会内存在としてのブランドのビジネスにとって、いちばん重要なことのひとつです。それに、みんな気が付いた。
 ですから、1本のCMでも、トータル・キャンペーンでも、最近はちょっと新しい傾向のものがでてきています。いわば「哲学広告」とでも呼ぶべきものです。via.海外広告が「突然おしゃべりになった」わけ:日経ビジネスオンライン
時代は急には変わらないけれど、ふと気が付くといつのまにか大きく変わっていくものです。企業も哲学・思想が問われる時代。面白いじゃないですか。


RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村

2014/05/13

年収は「住むところ」で決まる時代の、個人への処方箋。


前回のエントリー 年収は「住むところ」で決まる。競争力のある労働市場がなければ都市は発展しない はいろいろな意見が見れて興味深かったです。

都市が主語の話ではあるが、反応の多くは個人が主語のものが多く寄せられました。この本は、都市が財政破綻しないように税収を確保していくための処方箋であり、その処方箋が個人としても参考になるので、多くの人の関心となりいろいろな議論が展開できるのが人気の理由でしょう。

さて、個人としてどうするのか? 今後の身の振り方をどうするのか?という個人主語の問題についての現実的私見を今回は書いておきます。

−−−
経済的に破綻しないという目的(お金なくても幸せは追求できるけど、破綻したら不幸になるのは間違いないので。)で、個人の立場でいえば、都市との付き合い方も大きく分かれます。もちろん、個人もどんな人なのかによって取れる選択肢は変わります。



年収議論から始まったエントリーなので、年収を切り口としてケース分類して書きます。本来的にはマーケットに必要とされる技能や付加価値を産み出す能力別が正しいと思っていますが、これが現在の年収とニアリーイコールだという前提です。(個人的には年収を重視することは、意味がないという信念です)


<ミドル層>
大きな課題であり、社会課題はミドル層が維持できることだと思っているのでミドル層から行きます。(人口減少課題よりも、労働者人口減×ミドル層がローワー層になってしまうことのほうが本質的課題なので)

この本に書いてあるように、労働市場の厚みがある都市を選ぶというのも一つの選択肢ですが、その前に「何の職業を選ぶのか?」というのも個人にとっては大きな要素です。労働市場の厚みがある職業を選択しましょう。

先日読んだブログには以下の様な趣旨が書いてあり、すごく実用的な提案だと思っています。
「職業別の働いているプレイヤーの総数を明らかにした上で実力順に並べて何位ぐらいまでがいくらの年収をもらっているというデータが欲しい」(ベンチャー役員三界に家なし)という趣旨を改定あります。

ちょっと引用すると…
何かをつかむ人間、人より秀でた才を持った人間はもう小学校高学年くらいには頭角を現しているはずで、何者でもない自分が、、この斜陽の国の中で食って行くにはどの職業がよいのか?
そういう視点でしか物事を考えたことはなかった。
例えば極端だが、プロ野球選手は日本で750人、プロ棋士は160人程度だ。
アナウンサーは2500人程度。
これはその年の採用人数ではない従事している総数だ。
それに対して、SE、プログラマーは67万人、倉庫業は14万人だ。
どんな職業でも必ずしも実力順に給料が支払われているわけではないだろうが、ただ、やはりその傾向はあるはずである。
その道で食っているの中でランキング最下位の人の収入ラインが350万円くらいというのは、プロ野球選手でもプロ棋士でも、アナウンサーでもSEでもおおよそ同じはずだ。
とすれば、あまりにも規模と食えるようになるレベルに差がある。
職業として同じレベルに並べるのもおかしいほどなのだ。
アナウンサーを目指す人は日本で実力3000位ならその職で生活することすら不可能だが、SEで3000位なら年収はそれなりによいはずだ。いやむしろかなり良いかもしれない。
この職業と食えるレベルに対する難易度を少年少女にはきちんと説明すべきではないのか?
親自身も社会も、「子供には無限の可能性がある。」と言った美辞麗句を盾に、職業選択とその後の現実に蓋をするのはあまりにも無責任だ。

そう。職業選択を現実的に考える方法が大事で、戦略的に自分の実力でもそこそこの年収がもらえる市場を選んでください。今後の未来予想も含めて。そして、その中で頑張って実力をつけていってください。実力がついたら他の選択肢も出てきます。自分の将来のために。

そして、ハイエンド層への処方箋に踊らされずに、自分向けの戦略を虎視眈々と実践してください。

<ローワー層>
職業選択の自由を得られるように教育に投資したほうがいいです。でも、それができないようであれば、愛想良くする能力を磨いて、どこかの社長さんに仕事を面倒見てもらえるようにするというのも一つの手です。

※たぶん、ここで実践的な方法を書いたとしてもメッセージは伝わらないし、伝わったとしても実践しないと思うのでこのぐらいでw

<アッパー層>
※資産家レベルではなく、年収1000万円クラスの職業によって給与収入で暮らしている層をイメージ

この層は、むしろもう年収を目的にすることを見なおしたほうがいいと思います。同じ年収レベルの人と同じような暮らし競争をしようとして、出費も多くなっているはずです。

まずは自分たちの価値観をちゃんと見なおして、年収基準の暮らしよりも、自分たちの価値観としての暮らしの優先順位などを見なおしたほうがいいです。

その上で、自分の能力を今後どのマーケットで使っていくのか?暮らし方を前提に考えていったほうがいいでしょう。

見直すべきは支出やローンのほうです!ファイナンシャルスキルを磨いたほうがいい層です。所得貧乏にならないように。そうすれば、ハイエンド層のような年収や住むところの自由を得ることができます。

<ハイエンド層>
金額の大きさというよりも、会社から給与収入をもらうのではなく、自分の資産やビジネスモデルを有している人であれば、
もはや年収は「住むところ」で制約される必要はありません。

この記事にあるように
「オフィスのない会社」の創業者が提言:住む場所が自由になるワークスタイルのすすめ
のように、「住むところ」にとらわれなくてもいい雇用の生み出し方や、豊かな暮らし方をどんどん提案していってください。社会を変える力を持っている方々だと思うので。

ハイエンド層という名前にしましたが、自分でビジネスモデルを持っていたり、金銭ではない収益を得ることで年収にも住む場所にもとらわれない生き方をしている人もここに入ります。彼らも同じく社会に新しい提案をすることで、社会を変える力を持っているのだと思います。こういう人たちにとっては、これから課題がたくさんある地方がむしろ面白いと思っています。
(ただし、最初のケース分類で提示したように、マーケットに必要とされる技能や付加価値を産み出す能力別なので、そういう意味で彼らは間違いなくハイエンド層なのです)


■
人によって取れる選択肢は異なります。そんなこと言うと不謹慎なようですが、実践的なアドバイスをするためにはこれは無視できない事実だと思っています。

取れる選択肢を増やすためには、マーケットに必要とされる技能や付加価値を産み出す能力を磨くしかありません。そのためには教育や経験、仲間などの人的ネットワークを築く機会が重要。これが小さい頃から自覚できるようになったらいいのになぁ。

現実社会の「ゲームのルール」を教えてもらえないのは、かわいそうなことだと思います。


RSSリーダーで購読する

follow us in feedly

にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへにほんブログ村