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2014/03/31

“もうスーツなんか着ている余裕はない”という世界


ここのところ、まったく違う観点で服装について書かれたエントリーが目に留まりました。

学生のための「ドレスコード」入門〜「面接は私服でOK」の本当の意味:大石哲之のノマド研究所


NYで流行ってるらしい「Normcore」(究極の普通)とはなんぞ - Pebbles


前者は、服装はTPOに合わせて(ドレスコードに合わせて)選択するというルールについて説明し、だからこそ面接はビジネスモードで行くということ。


後者は、“既存のファッショナブルさに対する懐疑、快適さ重視のスタイルの肯定”として、ファッショナブルな人ほど“普通の格好”をしているトレンドについてとりあげています。


===


依然として多くの仕事は、ビジネスというコードが存在しています。就職するというのは、まだまだそういった世界です。(前者の記事の世界)


一方で俯瞰的に世界で起こっていることを見ていると、スーツを着て、デスクに座ってできる“定型的”で“説明責任の強い”仕事や、“ハイファッション着て、パーティに出て自分の村で仲良くやっていればいい”仕事がどんどん減っていき、カジュアルに動いて頭つかって汗かいて生み出さなくちゃ、生き残っていけなくなっているという現象もあります。(後者の記事の世界)


だからこそ、従来通りのホワイトカラー的な世界を目指すには、狭き門を勝ち残ることが必要になります。一方で、後者の世界で生きていくためには、もうスーツなんか着ている余裕はないのです。



スーツというコードに代表される社会ルールや業界ルールを守っていれば弾き飛ばされない世界よりも、服装がカジュアルで自由そうな世界のほうが、より厳しい環境なのだと思います。



もちろん、これからのことを考えると、カジュアルの世界でも生きていく力を身につけておいたほうが、スーツの世界でも活躍できるチャンスは増えるでしょう。


もうみんな平等にそこそこ楽できる時代は長くはありません。カジュアルな世界は、社会のコードよりも、自分自身のライフスタイルや価値観が問われる世界。自由には責任が伴う世界。残された時間は、あと10年ぐらいだろうか?それとも…。




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2014/03/26

今、異文化がぶつかりイノベーションが起こる場所はどこなんだろう?


今、異文化がぶつかっている場所はどこなのだろうか?

どうしてこんなことを考えているのかというと、歴史を鑑みてもイノベーションが起こるのは、異文化がぶつかる場所だからだ。

 
例えば、上記の本で書かれている“12世紀ルネサンス“では、「異文化がぶつかるときに、新しいものが生まれる」ということを歴史的に実証している。

 西欧社会から失われていた古代ギリシャの文明や科学を、アラビア世界経由で再発見した時代。宗教的な違いや言語の違いを超えて、アラビアに真実の学問があると学んだ人々。そして、イベリア半島などの文化がぶつかる地点の重要さが書かれている。


音楽だってそうだ。


レゲエがジャマイカで生まれたのは奴隷として運ばれた人の文化と、アメリカから入るラジオの音楽という文化が影響しあって新しい音楽が生まれたと言われている。ジャズにしろ、ヒップホップにしても、文化が出会って生まれてきた。




異文化が出会う場所は、地政学的にみると、港町が多かった。外国の船がやってきて、新しいものが持ち込まれる。そこに集まるのは、交易を商売にする商人など“差”がビジネスになると気がついていた人々だ。だからこそ、“差”を排除して安定を求めるよりも、“差”を面白がって売り出すほうに自然と向かった。


そう。重要なのは“異文化が出会う場所”では、新しいものに触れてインスパイアされる環境があり、そしてそこから生まれたものを面白がる環境の2つが同時に存在していた。



さて、元の問いに戻ろう。「今、異文化がぶつかり、新しいものが生まれる場所はどこなんだろう?」

ネットの中だと思う人もいるかもしれない。しかし、僕は違うと思う。いくらネットで情報交換が行えるようになったとしても、リアルの社会に偏った場所にはかなわない。なぜなら、新しいものにインスパイアされる出会いは“顕在化”しているものではない。だからこそ、出会い頭で、ショックのような感情を揺り動かす体験が伴い、新しい創作意欲が湧いてくる。顕在化してないから、検索して出会うわけにはいかない。


ネットは、すでに見つけた道を掘り下げていくときには、非常にいいツールだ。だけど、自分に影響を与えてくれる新しい道を見つけるようなランダム性は偶発性はリアル社会のほうが強い。


今、異文化が出会い、新しいものを受け入れる環境にあるのは以下のような場所だ。


1:経済的に成功チャンスが高まるプラットフォームを持った都市(ニューヨークや上海、シリコンバレー、最近ではオースティンとかも。アジアの新興国の都市もここに入る)


昔、交易で栄えた都市が担っていたのと同じく、今でも経済的なチャンスがある都市には、世界中から人が集まり、異文化が出会い、それを商売とする人が現れる。この都市の位置づけを都市は競っているし、世界中からタレントを集めるの戦いが行われている。


東京は、1のポジションを取るだけの経済的なポテンシャルも規模もあるけれども、新しいものを受け入れる“受容態度”に問題があることで、大きな損失をしているような気がしてならない。


2:経済都市としての魅力が相対的に低い分、馬鹿者にチャンスが与えられる地方都市(デトロイトや日本の地方都市。経済的なものではなく、自然など人を引きつけるものがある場所)


一方で、全く逆の動きもある。廃れてしまったことにより、隙間が生まれ、経済的な負担の必要性が低く、新しいことを仕掛けたい人があえて集まる場所もある。合理的ではない判断で、自然や人に惹かれてやってくる少数のタレント同士が化学反応を起こすことで新しいものが生まれてくる場合である。当事者たちはまったく意識していないでしょうが、ある種のリバースイノベーション(※)なのかもしれない。

これまでのグローカリゼーションが、先進国で製品開発を行い、その商品をマイナーチェンジした廉価版を新興国向けに投入してきたのに対し、リバース・イノベーションでは、新興国市場に合った商品を一から生み出す「イノベーション」を行い、その商品をリバース(逆戻り=逆流)させ、先進国に投入する



もちろん、こういうことを考えているのは、自分が今いる場所が“化学反応が起こる場所”なのかを気にしているからだ。せっかくなら、異文化がぶつかって、その差異を認め合い楽しめる世界のほうにいたいから。

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2014/03/20

(千葉県佐原から学ぶ)時代の変化を読み取れるか?読み取れたとしても変化できるのか?

先日、取材で千葉県香取市佐原を訪れました。
佐原は江戸時代には“江戸優り”と言われるほどの商業と観光の中心地。

当時の物流の中心は水運。その水路の重要な地点として、積み下ろしが行われ、人が集まり、市場が開かれ、商業都市として栄えていたようです。さらに、香取神宮を参拝する観光客が集まる観光都市という一面もあったのでしょう。


現在、その町並みは、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。水路から陸路に物流が変わり、都市の位置づけが変わっていく中で、現代の都市開発から逃れた佐原には、“町並み”“東京からはなくなった江戸文化”という大きな武器が残りました。


佐原で考え方ことは以下の2つの部分です。
  1. 技術革新・時代の変化によって、自分たちの将来予測ができなかったのか?水路から陸路に物流が変わる予測ができなかったのか?
  2. 変化は読めていても、自分たちが変化したり、移動する意思決定ができたかのか?


自分たちのいる都市・場所の環境がどう変わっていくのかを予想することができたとしても、都市自体が変化することは困難だということを痛感しました。ましてや、地理的なことが要因であればなおさら…。

都市にも他の選択肢はありますが、“変わりたくない人”のために変化の意思決定が行えなくなります。佐原を例に仮定すれば、時代的に弱くなってしまった水運に補助金などをつぎ込むことを行政は意思決定するかもしれません。本来は、その資金を使って観光部分を伸ばすことに投資すべきだったかもしれないのに…。

個人であれば他の場所に移ってしまうことや、商業都市としての面が薄れても観光という部分が残るという読みで、商売替えをするという選択肢もあります。

都市という多くの利害関係者の中での意思決定に比べたら、個人は自分のリスクでジャッジし、変化できます。周りから博打と思われていても、自分が納得する選択肢なら変化することができるはずです。

とはいえ、「このままでも、なんとかなるんじゃないか?」「周りの人も、今までどおりにやっているし…」という気持ちになるのが人間です。だからこそ、こうやって歴史的事実を見ながら、自分の意思決定&変化許容度を上げておく必要があるのでしょうね。



佐原は当時の町並みと文化が残る、素晴らしい場所なので遊びに行った上で、自分自身に、「変化できるのか?」を問うてみてください。


コンテナ物語は物流が新しいコンテナという技術でどう変化したかを記した良書です。適応した港と、既得権益層が強くて乗り遅れた港…。同じようにシミュレーションをするのに最適な本です

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2014/03/13

光も影も両方見せたほうが、得なんじゃないかな?


独立して事業をやっているからか、自分の進むべき方向を模索している人の相談を受けることが多い。

僕がキャラクター的に飄々としているせいでもあるが、軽々と生きているように思われるらしい。いやいや、誰しも大変なことはたくさんあるし、ダメな部分だって本当にたくさんある。

自分の影の部分にはよく気がつくのに、他人の影の部分は見えづらいのかもしれない。(逆もあって、自分の得意なことは自分では見えないけれど、他人の得意なことはすぐ羨む)


そんなこともあり、相談してくる人には、自分の苦労話や失敗談をできるだけ披露するようにしている。自分が好きなことと苦手なことを紹介し、得手不得手を痛感しているからこそ、自分戦略として選択している働き方を説明している。

自分の光の部分も影の部分も両方を伝えることで、はじめて相手の腹に落ちると思っている光の部分しか語らない人とはいつまでたっても、本当の意味での信頼はできない。

自分の影の部分をさらけ出せないプライドが高い人よりも、自分のダメな部分を笑いながら共有してくれる人のほうが、ずっとチャーミングだし、一緒に何かやってみたいと思える。

自分のことを笑ってさらけだせる。そういう自尊心がある人は、とっくに「光も影も両方見せたほうが、得だ」ということに気がついている




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2014/03/06

多くの「◯◯から目線」を想像できることは、武器になる。


同じ人達とだけ付き合っていたり、特定の母集団の中だけで過ごすようになると、異質なものに触れる機会がなくなり、自分たちが“普通”だと思い込んでしまう危険性がある。


下記は、そんなことを思い出させてくれる秀逸なtweet。



そうだよねぇ。東京に住んでいる人は特に気を付けないと、自分たちの当たり前が、日本の当たり前だと思っちゃうから。もっと俯瞰的に自分たちの状況を捉えないと。。。


そして、各エリアに「◯◯から目線」が存在するならば、旅に出て「◯◯から目線」を体験するのはすごく価値があること。

以前、「量が質に変わる」のは「ものさし」ができて「解像度」が高まるから。というエントリーで書いたように、自分の中に多くのものさしを持つことで、ものを見る・解釈できる解像度が高くなる

もちろん、地域だけの話じゃない。日常の周りには多くの「◯◯から目線」が存在している。子育てしているママの目線、年金生活をしているお年寄りの目線、自営業経営者の目線、都市に引っ越しをしてきたばかりの人の目線、海外から旅行に来ている人の目線、消費者目線だけでなくサービスを提供する側の目線・・・。

多くの目線を想像・想定できることは、大きな武器になる。先進国では、いわゆる“ミドルクラス”のボリュームが減っていき、目線がますます多様化する社会になるのだから。




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2014/02/26

スタバでさえ、ブランドの陳腐化と戦っている。いわんや個人においてをや。

最初は斬新なブランドだったとしても規模が大きくなるにつれ、陳腐化することと戦わなくちゃいけない。

こんなことを思ったのが、家の近所である池尻の裏道にinspired by Starbucksが出店準備をしているのを見つけたから。その前には同じく近所の代沢にも店舗ができていました。(どうやら玉川三丁目、北沢五丁目につづき三店舗目?)




inspired by Starbucksはスターバックスの新業態で、“Your Neighborhood & Coffee”と銘打ち、まるで今流行のサードウェーブコーヒーのショップのような店舗コンセプト。

出店エリアもチェーン店が出店しないような場所、大通りから一歩入った場所。お酒も出すし、コーヒーもハンドドリップなどで入れるためメニューも通常のお店とは異なります。




スターバックスもいまではすっかりマスブランド。海外では"starbucked"と過去形で呼ばれることもあるらしい。もともとはアメリカのコーヒー文化に新しいものを持ち込んだ“尖った“ブランドだったが、成長し巨大化することでいつのまにか陳腐化してしまうもの。自分たちが当たり前を作ってしまい、ありふれてしまったから。

そうすると、新たにより“尖った”価値を提供する挑戦者に追い立てられるようになります。そういったときに、危機感を持って“尖った”側のものを取り込めるのか? 自分たちをアグレッシブな側にいつづけることを選べるのか?

スターバックスは、自分たちのブランドが陳腐化しないように、チャレンジャーと同じ価値を提供するコンセプトにも挑戦することを選んだのでしょうか。(サブブランドでであっても)。それとも新たな白地への出店計画としてのサブブランドというだけなのでしょうか。そのあたりの思惑はわかりません。


翻って、この教訓は個人にとっても言えることだと思います。自分が陳腐化しないように、常に新しいチャレンジを取り込んでいく。片足を既存のものに置きながら、未来のために新しい挑戦を仕込んでおく。大きなブランドでさえ、こうやってチャレンジしているのだから、小回りが効く個人ならなおさら忘れちゃいけないよなぁ。



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2014/02/20

「努力の目利き」ができるようになるには? 情報収集環境が整った分、自分の頭で考えることがより重要に。

努力について回る高度経済成長期の呪い−シロクマの屑籠」というエントリーを読んでいて、「ああ、言っちゃったぁw」と言葉を漏らしてしまいました。そのぐらい、事実として自分たちのいる時代×場所を冷静に把握しているエントリーだと思いました。

努力の“目利き”がきかない人間には、努力の成果が実感しにくい時代がやってきた。いや、元に戻ったというべきか。どんな人間もエスカレーターに乗って上昇できる時代のほうが、どこかおかしい。

にもかかわらず、世の多数派を占めているのも、発言力のあるポジションを占めているのも、エスカレーターに乗っていた世代だ。彼らは自分達の実体験をもとに、「努力すれば必ず報われる」と発言する。いや、発言しないとしても、価値観や規範意識として、無意識のレベルに染みこんでいれば、そのような価値規範は言動の端々に現れる。

誰のアドバイスを聞くべきなのか?誰をロールモデルとすべきなのか?どこに山を張るべきなのか?ちゃんと見極めなくちゃいけない。それこそが生きる上での選択ってものです。



---

さて、ここからが本題。上にも書いてあるように「努力の目利き」が必要な時代。この「努力の目利き」ってどうやったら手に入れられるのでしょうか?

・二世代以上上の世代や混乱期にのし上がってきた人、海外など環境の異なる場所に飛び込んでもがいた人などにあたりをつけて、話を聞いたりネット上で情報を集めるなどの情報収集・調査能力

・ヒアリングした内容を普遍性を持った教訓に昇華した上で、自分の状況に照らしあわせた場合に何ができるかを考えられる応用力

実行する前の「努力の目利き」時点で、これだけのアクティブな情報収集能力が必要となります。というか、これに数値で示して説得していくプレゼン能力とか加えていったら、まるでコンサルですw

奇しくも、この情報収集部分はインターネットにより効率的に、LCCなどによって移動コストが下がったおかげで、先進国ではある程度万人が利用できる環境にあります。だからこそ、どこにアンテナを立てて調査をしていくことが「センス」というワードがしっくりくるのだと思います。

他の人より圧倒的に秀でた才能があって、それを自分としてもやらざるをえない人以外は、自分の欲求を言葉にしながら、その欲求とマッチングできる市場を探す必要があるのです。

まさに自己判断の時代。情報だけ集めても自分の頭で考えられないと意味がない時代。ちゃんと考えずに誰かさんの真似しようぐらいのフラフラとした意思決定は命取り。努力する前にちゃんと調査して、戦略を考える。個人の生き方にも虎視眈々と戦略を、と本気で思っています。

関連エントリー:「会社や組織の戦略は練るのに、自分のライフ戦略が後回しではもったいない。


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2014/02/13

「自分でコントロールできる時間が増える」とパフォーマンスが上がるというシンプルな仮説。


人生を楽しんでいる人と不平不満を言いながら過ごしている人で、一番大きく異なるのが「時間の裁量」ではなだいだろうか?

時間の裁量は、時間に余裕があるか?とかゆったりできているのか?ということではない。多忙だって人生を楽しんでいる人は沢山いるし、暇だからといって幸せなわけではない。

じゃあ何が違うのかというと、「活動時間に占める自分のやりたいことをやっている時間比率」だろう。


自分で自分の時間に裁量権を持ちやすいのが、インディペンデントな働き方をしている人や、起業をしている人。一方で組織に勤めていると分業やしがらみの中で、時間の裁量権を持ちづらいという傾向は間違いなく存在している。

もちろん、企業内にいても「自分でコントロールできる時間」を増やす工夫はできるし、組織から出て自分でやっている人にも「自分でコントロールできる時間」を有効に使えていない人もいる。

あくまで傾向として考えていくと(自分の経験も含めて)、大きな組織に属している人には、その時間をどんどん他の人からのアポイントや会議でびっしり埋まってしまう。

自分の部署の戦略を考えたり、来期に向けた仕掛けを行ったりする時間はちゃんと存在するし、自分で受けたい社外研修を受けにいったり、話を聞きたい人にヒアリングに出かけたりも「自分のやりたいことをやっている時間」に当てはまる。会社員にとっても至福の時間と言ってもいいだろう。

とはいえ、この時間に対して圧倒的に組織システムに占有される時間が多くなってしまう。

部下の査定のための時間、定例会議という名前のたくさんの「定例」化することでの安心感、会議を招集する人の手間を省くために半年先、一年先まで押さえられている会議・・・。


それがインディペンデントな働き方や起業をしている人は、“定例に支配される”流れからは無縁になってくる。必要なのか不必要なのかをジャッジして、選んでいくことが当たり前だからだ。

そうすると、「自分でコントロールできる時間」を持っている人たちは、昼間だろうが、平日だろうが、どんどん未来へ向けた打ち合わせを行うことができる。面白そうだと思ったことを、共有したり、企んだりすることができる。

この違いはすごく大きいじゃないかなぁ。
こちら側にいる人たちも、同じように忙しいかもしれない。
けれども、その忙しさは自ら望んだスケジュールや未来へ向けた仕込みのための愉しい時間によって忙しいのだ。

仕事へのパフォーマンスや充実感の違いは、実は、この「自分でコントロールできる時間」で決まってくるんじゃないのかなぁ?

そんなことを書いている僕には「育児」という定例が。。。いや、これも大事な未来へ向けた取り組みですよ!(キリッ)。


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2014/02/06

自分のプロジェクト持っていますか? Narrativeな起業、ストーリーのある事業づくり。


現在、自由大学で新しく始めようと思っている「起業系」の講義を準備中です。

起業系というといわゆる“スタートアップ”的なIT系のイメージがしてしまうと思うのですが、そうではなく“自由大学らしい”そして“僕が伝えたい”起業とは何なのかを考えています。

以前にもこのBlogに書いたかもしれませんが、「自分が提供する価値や疑問に従って起業をするということは、その人のストーリーでありビジネスモデルではない」と考えています。ビジネスモデルなら誰でもできるけれど、ストーリーがあるものはその人がやる必要性がある。海外では「ナラティブ(Narrative)」という単語で呼ばれている。

そして僕が、わざわざ「起業」のプログラムを作ろうとしているのも、自分が幼少の頃に自営業の中で育った原体験があるからこそ。自分たちで商売をしている大人たちは、仕事も好奇心むき出しで、まるで遊びのように楽しみながらもがく姿を見てきたからだと思っています。

自分のストーリーに則った商売をしている愉しい大人が増えたら社会はまだまだ面白くなるよなぁ、という気持ちが僕の中にあるからです。

自由大学でずっとやってきている脱藩学でも、おじいさんやおばあさんのやってきた仕事までさかのぼって、ヒアリングしてくる宿題を出しています。だいたいそこまで戻ると、個人事業を経験している人が出てきます。

いつのまにか、起業=遠い世界の出来事、特別な人がすること、という概念が広まっていますが、昔はそんなことなかったはず。そして、自分の生きている時間を何に使うかを考えた場合に、マイプロジェクトとして主体的にチャレンジするストーリーを作って欲しいと思っています。

もちろん、企業内でチャレンジしてもいいし、外でもいいと思っています。自分が生きてきたストーリーや思想をちゃんと次世代に見せられるようになりたいですからね。

規模の大小ではなく、ちゃんと想いがあって自分の人生の時間を費やしてきたかを語れるかが重要なんだろうなぁ。そんなことを考えている昨今です。

あ、あと肝心の起業系の講座ですが、座学だけはつまらないので実際にいろいろ現実に動いているプロジェクトに参加してもらうことで、僕らのビジネス現場を体験してもらう仕組みも作ろうと思っています。習うより慣れろ、でね。

■関連エントリー
「職業は、自分で作っていいんだよ。」
「$100STARTUP」他人から相談・質問されることが自分の食える分野


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2014/01/30

マイクロパブリッシングの可能性と課題(「Publication 出版の未来」イベントに参加して)



昨日、みどり荘で行われたInspired Session "Publication"に参加してきました。いろいろと自分の中でも考えておきたいテーマだったので、ここに感じたことを残しておきます。(参加できなかった人のためにも)
今回のテーマは、”publication 出版の未来"〜DIYで本を出すことの面白さや経済性とは〜 

本が売れないと言われて久しい。ただそのような中、今までの常識と異なる方法で手に取って嬉しい本や雑誌が生み出され始めている。
事実、このソーシャルネット社会では制作者と読者が直につながることが可能になってきており、小さなDIY出版の作品が広く世にでることも難しい事ではなくなったのかもしれない。ただ、それでもクオリティを担保しつつ、限りある予算で作っていく事はそう簡単には行かないはずだ
今回はDIYで本や雑誌づくりをしている方をゲストに、どのようなパッションが行動に結びついているのか/編集チームはどうなっているのか/エコノミクスとの関係はどうなっているのか等々その背景や取組みに迫りながら、出版の未来を探っていきたい。 
ゲストは以下のお三方。

影山知明さん 西国分寺にあるクルミドコーヒー店主であり、お店のお客さんが著者となり始めたクルミド出版発行人。

『10年後、ともに会いに』寺井暁子著、『やがて森になる』小谷ふみ著と二冊出版されています。


堀江大祐さん メディアサーフコミュニケーションズ株式会社。青山国連前ファーマーズマーケットの季刊誌NORAHを編集。



岡島悦代さん 自由大学コンテンツディレクター。PortlandのガイドブックをDIYで出版したプロジェクトマネージャー。





■想いを伝える、世界観を体験してもらうための手段として紙の本を選んだ


三者とも共通しているのは、リアルなコミュニティがあり、その活動や想いを伝えるために、自分たちが版元となって出版していること。そして出版も編集の経験もなく、飛び込んでいるということ。

クルミド出版には、クルミドコーヒーというカフェが。NORAHにはファーマーズマーケットが、TRUE PORTLANDには自由大学およびファンダーの黒崎さんが長年培ってきたポートランドとの関係性があった。先にコミュニティがあり、その母体から情報を発信している中で、出版という手段を取ったというのが印象的です。

例えば、クルミド出版であれば、クルミドコーヒーというお店の世界観である「50年続くカフェを作りたい」という想いが根底にあります。だからこそ、本棚に置いてもらい、背表紙を見たときに読んだときの感覚が浮かび上がる本を作ることになったそうです。

NORAHであれば、ファーマーズマーケットの背景にある考え方やカルチャー。TRUE PORTLANDであれば、「ガイドブックはめくってもらって、なんぼ」というコンセプトのもと、現地に行って体験してもらいたいからこそ、作られています。


■インディペンデントだから媚びる必要がないことの重み


どの本も装丁や印刷、紙、もちろん内容・・・どこをとっても、「なぜこうしたのか」という話が出てきます。伝えたいことがあって、その上で「本という手段」を選択しているからこそ、表現手段としてすべてにこだわりがあります。

NORAHの「このメッセージを伝えているのに、途中に純広が入ってしまったら、読者は冷めちゃうでしょ」という読んでいる人の体験を意識しているという話や、TRUE PORTLANDの「取材したお店や関わってくれている人のことを思うと、中途半端なものを作るわけにはいかない」という話も、インディペンデントなものだからお手軽ということではないことを表しています。

自分たちで始めたからこそ、言い訳せずに裏切らない本を創る責任があるわけです。


■本を創るのはなんとかなる。課題は売り方・・・。


TRUE PORTLANDは、ポートランドのガイドブックとして多くの人に知ってほしいということで、取り次ぎも通して販売しているそうですが、クルミド出版とNORAHは自分たちで販売先も選定していて、闇雲に流通を拡げることよりも大事にしているものがあるようでした。

NORAHでは、ファーマーズマーケットに出店してもらう農家さんを直接訪れて、現地を見て話をしているのと同じように、本を扱いたいと言ってくれた書店さんに会いに行ったり、電話で話して想いを聞くようにしているとのこと。

書籍をビジネスとして始またわけではないからこそ、丁寧にこだわって作った手触りのある本を“流通でも”おざなりにしたくないという意志が伝わってくる話です。

これこそマイクロパブリッシングで大事なことなのかもしれません。

自分たちのやっていることをちゃんと伝えたい、自分たちのコミュニティを誇りに思っているところからスタートしているからでしょう。

とはいえ、想いに共感してくれる販売先やコミュニティがある彼らでも、販売に関しては苦労しているとのこと。マイクロパブリッシングで出したものが、ちゃんと届くべき人に届く仕組みが未整備だということは、大きな課題です。


■最後に感じたこと

もともと活版の出自から振り返っても、教会という権威から知識を解放するために、生まれたのが出版という武器。

今回のマイクロパブリッシングの話を聞いていて、彼らがやっていることは、この文脈に沿っていて自然な行為だと感じました。

いつのまにか、出版=出版社という固定概念を、知識を解放するには「一次情報」を一番持っている人が作ればいいんじゃない?という、問題提起とも受け取れます。

出版社にいる編集者が、自分がいだいた疑問を取材を通して解消し伝えるのも、最前線で戦っている人が、著者として見えているものを発信するのも、編集は素人だけれどこの分野で伝えたいことがあるという人が、出版までやってしまうのも、どれも並列なんだと思います。

問われているのは、一次情報の濃密さと、それを最後まで丁寧に形にして届ける情熱です。マイクロパブリッシングを情熱なくやる人はいないわけで、必然的に面白い本がこの形態から生まれやすいと僕は確信しています。


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2014/01/23

都市の醍醐味は、既存組織や地縁とは別のコミュニティができやすいこと。


従来の組織や、地縁とは別のコミュニティが形成できるポテンシャルが高いのが都市の醍醐味だと思います。

新しいことをやろうと決めている人にとっては、供給過多の大都市よりも地方のほうが隙間や受け入れてくれる土壌が揃っています。本当に地方が面白い時代です。

でも、先に書いたように多種多様の人に出会いやすい、同じ価値観・趣味の人と集まりやすいという機能では都市は非常に優れています。

===
先日、自由大学脱藩学卒業生コミュニティの新年会が渋谷で行われました。2012年夏に始めた脱藩学ですが、来月から5期が始まろうとしています。

僕にとっては、仕事という位置づけではなく、あくまで面白がってやっているものなので、じっくり、ゆっくり、そして卒業後も一緒に仕掛ける仲間として付き合っています。

脱藩学自体が、既存の組織にも、地縁にも関係せず、何か新しいことを模索して集まってくる人たちのコミュニティです。会社以外でも、自分を活かして何かできないか? 自分の人生をもっと面白がるためのヒントを求めてやってくる人たち。

そして、個人が持っているスキルは本当にバラバラ。ネットでの商売が得意な人、商業施設運営が得意な人、アウトドアイベントが得意な人、コーヒーのスペシャリスト、音楽が得意な人、ワークショップを行うのが得意な人、書籍のプロデューサー・・・と多種多様なタレントが集まってきます。


同じ価値観をもっている人たちと知り合え、そして何かあったらリアルに集まれる効能は、今後もますます重要になっていくでしょう。そして何かあったときに、必要なタレントをもった人に相談できる効能も。

自分の所属するもう一つの場所と、そこで生まれる新しい化学反応。こういったプラットフォームを都市に住んでいる人は、使わなくちゃもったいない!生活コストが高いのは、この機能代も含まれてますよ!!

そんなことを思った新年会でした。

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